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プルースト『失われた時を求めて』を全巻踏破! ②アルベルチーヌ その2 [シリーズで考える深い考察]

ふう~。

考えてみると、わたくしのブログってはちゃめちゃですね。

ただのじみ~な読書日記風なブログか、

と思えば、いきなりハンドメイド日記にはやがわり。

しかし、そのどちらも自分なんですよね。

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さて、今日はアルベルチーヌの続きですね。

そう、アルベルチーヌは主人公である猜疑心の強い主人公を残して、

奇妙な同棲生活に別れを告げるのです。

そこで、主人公はアルベルチーヌから別れいったことに、ほっと安堵をすると同時に、

とてつもない喪失感を覚えてしまう。

…って読んでいて、非常にイライラする箇所なんですよね。

この人は、いったい何を考えているのだろうかってね。

主人公は本当に自分本位な人です。

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要するに、2巻で突然「スワンの恋」って章がでてくるんですが、

これって、主人公が生まれる前の話で、

この小説はこの「スワンの恋」以外はすべて「私」の一人称で語られるのに、

この章だけ違うんですね。

この「スワンの恋」だけで、独立した一個の中篇小説ができるくらいです。

(実際、『スワンの恋』という映画もある)

実はこのスワンの恋は主人公とアルベルチーヌの恋愛の雛形になっているんですよね。

スワンと言う人は、ユダヤ系の株の仲買人の息子なのですが、

まあ、親がとってもリッチだったのと、彼自身が極めて眉目秀麗で、社交術にも長け、

かつ、芸術品の造詣にも深いディレッタントだったので、

社交界の寵児にまで上り詰めた人だったのです。

それなのに、どういうわけかすごく美しいけれど、

高級娼婦のオデット・ド・クレシーと結婚してしまうんです。

それこそ、社交界にとって彼の結婚は大スキャンダルでした。

そして、彼は社交界から追放されてしまうんです。

でも、スワンの恋の仕方っておかしいんですよ。

実は、スワンの女の好みってとっても庶民的だったんです。

こう、なんていうのかな、むっちりと肉感的な女、

作中の言葉を借りて言えば、「ばら色の肉体を持った女」が好きだったんですね。

つまり、オデットは美しいけれど、やせぎすで、

見てくれはよくて、アクセサリーとしてつれて歩くにはまことに結構な女だけれど、

こう男として女を感じたい部分には、

オデットはスワンに何の感慨も与えられなかったということなんでしょう。

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ところで、スワンにあこがれていた主人公は、スワンの真似をしてみたかったんじゃないかな。

オデットはスワンのことが好きで好きで、どうしても結婚してほしい人だったので、

あの手、この手でスワンを攻めていくのですが、

しかし、アルベルチーヌはそんなオデットとは違っていたのですね。

アルベルチーヌのほうが悲観的で、

オデットのほうが、アグレッシブでファイトのある女だったのでしょうか。

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アルベルチーヌはとても美しくて、利発で、そしてとても優しい。

しかし、なぜかとらえどころのない謎めいた一面があったのです。

あと、なにかこう全ての面で投げやりとでもいうか、あきらめていた様子が伺えるのですね。

結局、主人公がアルベルチーヌと別れることができなかったのは、

その謎を解き明かしたかったからなんだろうと思う。

ときどき、アルベルチーヌの放心した表情から、キラリっと目から火花が散ることがある。

いったいそれはなぜなのか。

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しかし、アルベルチーヌは決心をして主人公のもとから去っていってしまう。

フランソワーズから渡された手紙は、本当にすばらしい手紙で、

無駄なことは一切書いてないし、相手に恥をかかせるようなことも、

ましてや責めるようなことも書かれていない。

ただ、別れるときがきたようだ、と自分の意思をはっきりと書くのです。

それでいて、優しさが漂う、なんともいえない切なさが溢れた別れの手紙です。

わたくし、思わず、三四回読み直しましたね。

生きているうちにこんな手紙を書ける大人の人間になっていたいものだなぁと心のそこから思いました。

それなのに、たかだか二十歳かそこらの人間がこんな手紙を書けるものかしら?

ん~、やはりそこは小説なんだと思います。

しばし、呆然としたあと、主人公はなんとかアルベルチーヌを取り戻そうと

親友のサン・ルーを自分のかわりにアルベルチーヌが身を寄せているおばの里である、

トゥールまで行って説得してもらったのですが、アルベルチーヌは首を縦には振りませんでした。

何回か、二人の間には手紙のやりとりがあり、

主人公が脅したりすかしたりしてアルベルチーヌをどうにか取り戻そうとやっきになっているのに、

返事の手紙は一見、優しさや思いやりには溢れているけれど、どこか彼女の本心を隠した

お行儀のよい手紙しか来ませんでした。そこにはアルベルチーヌのどんな感情も見えないのです。

しかし、ほどなくして主人公のもとに、電報とアルベルチーヌからの手紙が同時に来ました。

電報はアルベルチーヌのおばからで、アルベルチーヌが馬に乗っていた際、事故で落馬し、

そのとき、木に全身を強くぶつけて死んでしまったという知らせでした。

そして、手紙はアルベルチーヌが死ぬ直前に書いた手紙で

「もういちど、あなたのところへ戻っていいでしょうか?」

と、今までの優しいながらもどこか冷めた調子の手紙から、打って変わって

思わず本心が吐露された手紙だったのです。

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わたくし、これは深読みかもしれませんが、

この手紙を書いたとき、アルベルチーヌはそうとうに追い詰められて孤独だったのだと思います。

誰にも頼れず、誰にも愛されていない。

そんな心の弱さからつい本音を主人公に漏らしてしまった。

けれども、主人公は本当にアルベルチーヌを愛しているわけではないので、

一旦は戻れるかもしれないけれど、いずれまた、捨てられるに違いない、と思ったのではないかなと。

そう悟ったとき、彼女は手紙を書いたことを後悔したのでしょう。

せめて、別れたあとくらいは、彼に軽蔑されることのないよう、

手紙の中だけでも矜持を保っていたいと願っていたのに…。

つまりは、彼女は自分の心の弱さに絶望してしまうのです。

で、事故に見せかけて、彼女は自殺してしまったような気がするんですねぇ。

あるいは、自分では気がつかなくても、無意識にそういった事故に向かわせていったのではないかと。

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主人公が疑っていたように、アルベルチーヌは同性愛に走っていたのかもしれません。

よせばいいのに、彼女が死んでしまった後でも、

主人公は彼女の素行調査をして、どんなに彼女が彼のしらないところで

放縦な性生活を送っていたかを知らされるのです。

でも、それは現代の同性愛者の愛とはちょっと立場が違うようにわたくしには思えるんですね。

この頃、ブルジョア階級の娘でも、持参金がなければ結婚できない、と書きました。

貴族の娘であっても、たとえば兄弟がいたりして、財産を分割すると貧乏になってしまうのが

わかっている場合には、結構平気で娘を修道院へ送り込んだりする親なんかはめずらしくなかったのです。

修道女になるか、あるいは、どこかお金持ちの家で住み込みで家庭教師をするか、

あるいは、彼女が美人なら高級娼婦となって、金持ちのパトロンにすがって生きるか、

まあ、そのぐらいしか道がないのですね。

それでは思い切って、本当の庶民、例えば、魚屋とか肉屋などの男と結婚する、というのなら

また話は別ですが、(そこには本当にお互いをいたわりあうような愛がなければならなのは

必然ですが)、アルベルチーヌのように、教育も教養もある女性が字も読めない男を好きになったりする

可能性は非常に少ないような気がします。

ま、何事も世の中には例外というものは常にありますが。

(ロレンスの『息子と恋人』はブルジョアの娘が、

粗野な、だけど非常に美男である炭鉱夫と結婚して、

価値観の違いからどんなに不幸な結婚生活をしたかを縷々と書き綴られています)

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つまりですね、主人公のような自分本位の男に囲われるような生活というのは、

男の性の玩具にされるということなのだと思います。

そこには、優しさもなく、ただただ、男の下劣な興味本位の性的満足しかないんだろう、と思いますね。

そういうのは、かなり心に堪えることなのだと思います。ささくれてくるんですよ。

まあこの頃の男性って結婚しても、そういう人は別段めずらしくもないんでしょうが、

それでも『結婚』して一家の主婦になるということは、その人の尊厳を守ってくれるものだと

思います。なんたって自分の親兄弟もいますし、世間体もありますし、

冷えた夫婦仲でも、お互いに恋人を作って、そ知らぬふりをして

暮らしていたりしますしね。

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疲れててくるんですよ。、

そういう男の愛人になるのは。

もともと男女の抱擁というのは、お互いの気持ちを優しくさせるというものだと思うんですよね。

愛し合っている二人ならば。

心を許しあっている仲ならば、お互いの肌のぬくもりもきっと心地よいでしょう。

しかし、アルベルチーヌは気が休まるときがない。

眠っているときしか、彼女には心の自由がない。

だから、彼女はすぐに眼を閉じて、没我の眠りの世界へと入っていってしまうのでしょう。

彼女は現実から逃げ出したいんですよ。

このどうにもならない現実から。

誰にも守られることのない自分。

それどころか、頼りにしたい恋人からは、いつも、猜疑心に満ちた目でじろじろ観察され、

尋問口調であれこれ言われたりする。

ほとほと愛想が尽きちゃったんでしょう。

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牧歌的な少年時代をつづった一巻には、突然、散歩道のモンジューヴァンで

音楽家であるヴァントイユの娘が女友達と抱き合っているのを

まだ幼い主人公が目撃してしまう、というびっくりな一節があるのですが、

アルベルチーヌはそのヴァントイユの娘の友達と親しかったのです。

たぶん、このふたりは、持参金がないもの同士だったんですね。

その当時は、別に結婚できないがために、その代償として同性愛に走る人は

結構いたわけですよ。

そういう人たちって、どこか寄る辺がなくてさびしいんですね。

だから、さびしいもの同志、寄り添って生活しているんです。

女同士であっても、肌を摺り寄せれば気分的に和むときもあっただろうと思うのです。

なにしろ、人間ですものね。

男の代償としての同姓愛だったような気がしてならないのですね。

アルベルチーヌが主人公に隠れて、主人公の知らない女と抱き合っていたのは、

主人公から執拗に責められて、心の均衡を取り戻したかったからじゃないのかしら?

子供が不安になって母親の懐に飛び込むように。

ながくなりますので、つづきはまた。


プルースト『失われた時を求めて』を全巻踏破! ②アルベルチーヌ その1 [シリーズで考える深い考察]

プルーストをお読みになった方なら、なぜ①概論のつぎに

いきなり②アルベルチーヌになるんだ!とお怒りになるかもしれません。

そうなんですねぇ~。順番どおりにいくと、作者の幼年時代・コンブレーから始めるのが

妥当なのかもしれませんが、

まあ、どうせわたくしのブログは、学術的には何の根拠もない、

自分が感じたままの感想というか要するにたわごとしか書いてないので、

気分的にアルベルチーヌなわけです。

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アルベルチーヌは、一読しただけでは、よくわからない謎のオンナです。

ざらっとあらすじをいいますと、

20世紀初頭のフランス。

ブルジョアのいいところの坊ちゃんである主人公は

生来、脆弱なうまれだったんですが、

あるとき、生涯の宿阿ともいえる、喘息になってしまったんです。

パリは空気が悪いんで、すこしリゾート地で療養しましょう、ってことになるんですね。

主人公はこのとき、いくつぐらいなのかな、たぶん十代後半かもしれない。

わたくしたち、日本人はフランスの海岸でリゾート地というと、

すぐに、地中海のほう、プロヴァンスとか、カンヌとか、そういう太陽燦々と輝くところを

想像してしまうんだけど、

意外と当時はノルマンディーの海岸が高級リゾートだったんですね。

で、バルベックという海岸へいくんです。

バルベックは作者が作った架空の町ですが、

モデルはカブールというところです。

カブールと言ってもわからない人もいますから、

そう、のだめちゃんが千秋先輩と行ったサン・マロとか

観光地でめっちゃくちゃ有名なモンサンミッシェルのほう、といえば

わかるかしらね。

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そうです。

そこで、主人公はおばあさんと一緒にやってくるんですが、

何しろ知ってる人がいない。

なにかこう所在ない思いをするんですね。

しかし、時間がたつにつれ、いろいろと知人、友人になる人も多いんですが、

そんな中にアルベルチーヌも入っていたのでした。

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アルベルチーヌを見たのは、最初は五六人の少女の固まりとして

見かけたんです。

みな、それぞれにいいところのお嬢さんっぽい子達ばっかりで、

しかも、それぞれに美しい。

その中でも、ぬきんでて主人公の目に付いたのがアルベルチーヌだったというわけ。

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出会いは、こんな風にリゾート地での気安さといいましょうか、

どうせ一過性のもの、と言う具合に、多少の危険はあるけれど、それが逆にスリルがある。

アルベルチーヌは主人公に思わせぶりに

「明日はわたし、パリに帰るの。

よかったら、夜、わたしの部屋でふたりですごしてもいいのよ」とさそう。

主人公はたとえ喘息もちでも、据え膳食わぬは男の恥、とでもいわんばかりに

少女の部屋に勇んでゆくのですが、

なぜかコトに及ぼうとすると

アルベルチーヌに「何するの! 気安く触らないでよ、わたしに近寄らないで!」

と拒絶。

おとなしく、オハナシだけをするために読んだのかよ~。紛らわしいヤツ、

けったくそわり~、カマトトぶりやがってよ。

で主人公はげんなりして、それっきりアルベルチーヌのことは忘れてしまうのです

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時は過ぎ、主人公も悪所通いも板についてきた頃、

ある日突然、アルベルチーヌは何の前触れもなく、主人公の家にやって来る。

そして、以前はあんなに抵抗したのに、

今度はやすやすと、主人公に抱かれてしまうのでした。

主人公は、そのときはアルベルチーヌの女性としての肉体にだけ

興味があったので、モノにしてしまって飽きてしまったら、いずれは捨てようと思っていたのでした。

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20世紀初頭のフランスのブルジョアの階級の女の子ってみんなこんな風に発展家さんばっかりなの?

とちょっと読んでいてびっくりしませんか?

わたくしはびっくりしました。

貴族階級なら、わりと退廃的な風はあるから、

表面はしとやかで貞淑な風を装っていれば、

つまり、世間に知れることがなければ、かなり大胆なことはやってしまうかもしれませんが、

ブルジョア階級というのは、主人公の母親や祖母をみている限りでは

そうとうモラルが厳しい感じがします。

主人公の母親なんかは自分の姪がふだん、ナチュラルメークでいかにも

化粧をしてないように巧妙にお化粧してたのに、

ある日、どういうわけか化粧しているのがばれてしまったんですよ。

「まあ、化粧なんかしている人なんかとおつきあいできませんわ!」で

絶交しちゃうんですよ。

だから、アルベルチーヌのやっていることは、ブルジョアの世界では絶対に

大目に見られるようなことではなかったはず。

しかし、それなのにアルベルチーヌは、主人公と同棲生活をしちゃうんですよね。

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これ、どういうことかとわたくしなりに考えてみたんですが、

アルベルチーヌはブルジョア階級に属しているとはいえ、

実の両親は死んでしまって、しかも両親は財産を残してくれなかった娘なんです。

それで、高級官僚のおばさんのところへ引き取られて育てられていた、というわけです。

おばさんは、一応アルベルチーヌは姪ですので、女学校ぐらいは行かせて教育は

つけてやってはいますが、基本的に彼女は、お情けでおばさんの家においてもらっている身、

肩身がせまいのです。

しかも、当時は結婚に際しては、持参金というものがなければ成立しませんでした。

アルベルチーヌは自身の財産がないわけですから、

仲良くしている友人の母親から

「かわいそうに、アルベルチーヌはいくらきれいでも、これでは絶対にお嫁にいけないわね」

と陰口をたたかれる存在だったんです。

ある意味、美しくて教養があるアルベルチーヌみたいな、こんな子は

高級娼婦予備軍なのかもしれないです。

というか、主人公はすでにアルベルチーヌをそういった高級娼婦と同じ類の女と

すでにジャンル分けしているような気がしますね。

だから、美しい彼女をまるで着せ替え人形のように、次々とフォルトニーみたいな

高級ブランドのお店から特注させた衣装や靴をいくつもいくつも与えるんです。

アルベルチーヌは、自分には絶対に与えられることはなかっただろうと

渇望していたこれらの高級品には、非常に目利きなんです。

これはプルーストの解説本を書いている海野弘さんがおっしゃっていたことだけれど、

「アルベルチーヌはある意味、同時代に生きたシャネルを彷彿とさせるところがある。

貴婦人は潤沢にお金があるので、ほしいものはすぐに手が入るため、それほど

モノに対して執着がないが、彼女らはそれらを望んでも与えられないため、

却ってそれらのことを貴婦人以上に知悉しており、見る目がある」と。

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ですから、主人公も気安くアルベルチーヌを妾のように囲ってしまうんです。

決して、将来結婚しよう、とかそんなことを考えていない。

主人公は、アルベルチーヌの美しさ、聡明さ、物事に対するセンスのよさ、などを

気に入っていたのですね。

だけど、それも一過性のもの。

いつかは、飽きれば彼女を捨てよう。そればかり、考えていたのでした。

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主人公は複雑な性格の人でして、

この人は作家を目指しているんですね。

そして、すごく多情なんです。自分が誠実な夫になれないのを自覚していおり、

かつまた、誠実な夫という枠に縛られるのがイヤなんです。

わたくしが思うに、彼は心の奥深くでは彼女に「愛」を感じているのだけれど、

それを自分では「執着」だと理解するのです。

そして、毎日二人でいることに耐えられなくなる。

彼女には飽きた。非日常性をなくした関係など倦怠以外の何ものでもない、

早く彼女を捨ててしまおう。

毎日そればかりを考えるようになる。

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しかし、主人公にはアルベルチーヌをどうしても手放せない理由があったのです。

それは、彼女はどうも主人公には隠している「秘密」があると。

それは、たぶん、彼女が同性愛者なのではないか、という疑問です。

主人公にとっては、解き明かされない謎ほどひきつけられるものはないのです。

彼女がどんな所業をしているのか、暴いてみせるまでは絶対に離さない、と思うのですね。

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そこから、ふたりの心理戦が始まる。

普段、主人公は日中、執筆の仕事をしているので、

アルベルチーヌにふらふらしていてもらっても困るので

彼女の友人のアンドレ(女の子にもつける名前のようです)にきてもらって、

日中は彼女とどこか、公園にいったり、ドライブしたりして過ごさせている。

帰ってくると、一日どうやって過ごしたのかイチイチ報告させるのですね。 

そして、ちょっとした話の食い違いがあるとそれを執拗に尋ねて、

本当にあったことを白状させようとする。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ある日、ルバッタというお店のアイスクリームが食べたい、とアルベルチーヌがいうと、

主人公は「ルバッタ」とわざわざ店を指名するのは、そこはかつて彼女とその同性愛者の

恋人と一緒に食べた店に違いない、と腹の中で考えていたりするのです。

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もう、一時が万事、そんなふうで、

ある日、執拗に尋問していた主人公に耐えかねて

アルベルチーヌは激怒します。

そうすると、主人公はネチネチと「じゃあ、分かれよう。ボクたちはその日が来たんだ。

分かれたら、絶対にお互いに顔を二度と見ることがないように、ああして、こうして」

みたいに、心にもないことを言ってアルベルチーヌを苛め抜きます。

とうとう、アルベルチーヌは自分が悪かったと誤り、その晩は和解したように見えたのですが…

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しかし、その事件があってしばらくした朝、

主人公は決して、アルベルチーヌは自分から別れるとはいわないだろう、

そうすれば今こそ、自分から別れを告げよう、と思うのです。

そして、おきぬけのお茶を部屋まで運んできた女中のフランソワーズに

アルベルチーヌを自分の部屋にくるように呼んできてもらおうと思ったそのとき

ふしだら女とアルベルチーヌを嫌いぬいていたフランスワーズにこう言い渡されるのです。

「アルベルチーヌさんは、これを坊ちゃんに、と私に手紙を預けて、

ここをお立ちになりました」

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あまりに長いですね。つづきます。


プルースト『失われた時を求めて』を全巻踏破! ①概論 [シリーズで考える深い考察]

とうとう全巻読了しました!

20世紀フランス文学の金字塔とも称される

マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』

はぁ~、一言でいいますと、「長かった!」です。

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思えば、プルーストのぷの字も知らない20歳もそこそこの頃、

映画館で『スワンの恋』って言うのを見たんです。

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この映画が実に良かった。

小さい頃から、着せ替え人形で遊ぶのがすき、

お姫様が好き、ドレスが好き、で育った人間ですので、

本場の絹の緞子かなんかで細かな仕立てがしてある、

クリノリンドレスやバッスルスタイルのディドレスやソワレ(夜会服)など

豪華絢爛の世界を目の当たりにすると、くらくらと目がくらんでしまったんです。

そして…主人公シャルル・スワンを演じた若いジェレミー・アイアンズ。

今は渋いオジサンになっていますが、本当にかっこよかった。

この映画が引き金になって、

非常に難解といわれるプルーストをいつか読もう、と若い私は心に決めたのでした。

それから、いったい何十年かかったのでしょう?

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しかし、この小説はいわゆるフランス文学、ひいては美術、音楽の集大成でもあるので、

な~んにも知識がないと本当に面白くないだろうことは予感していました。

まぁ、音楽や絵画はわたくしの得意な領域なので、そこはよいとしても、

フランス文学はまったくといっていいほど、手をつけていませんでした。

でも、いきなりフランス文学はないだろう、と思い直し、

まずはやはりちょっとスノッブな三島由紀夫から。

スノブといっても三島の文学は本物ですので、かなり彼の美意識というものを

理解した上で、バルザック、フローベール、モーパッサン、ゾラ、メリメ、コレット、ジイド、などなど

読めるだけ、読みました。予備知識として。

さすがに、あんまり古いものはお手上げなので読みはしませんでしたけど。

(本当は読めるのだったら、読んだほうが良かった)

プルーストを読んでいて失敗したな、と思ったのがわたくし、まったくユゴーは読んでませんで

劇中の登場人物にユゴーの批判をながながとさせている箇所があって、

そこはまったく理解できませんでしたので、ちょっと残念です。

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とまれ、本題。

あらすじをいいますと、

っていうか、これってあらすじがあるようでないような感じなんですけどね、

19世紀も終わりごろ、作者の分身のような主人公の幼年時代から物語が始まるのです。

主人公の本宅はパリにあるらしいのですが、父親の休暇となるとその実家となる

コンブレーですごすことになるのです。

コンブレーはなんってことのない田舎なのですが、

主人公の家を起点として二つの散歩道がありました。

ひとつは「スワン家のほう」、メゼグリーズを通って、スワンの家のあるタンソンヴィルへの道。

もう一方は、「ゲルマントのほう」

こちらは、パリの中でも大貴族の中の大貴族であるゲルマント家の本拠地というか、領地があるところでしてた。

ゲルマントのほうは、スワンの家のほうへいくよりちょっと道のりが遠く、

スワンの家に行くようにちょいちょい行けないのが難点です。

ですが、川伝いにいく散歩道はサンザシの花が咲き誇るスワンの家とはまた違った趣がありました。

そして、町の中心にあるちっぽけな教会にはゲルマント家の先祖である、ジュヌビエーヴ・ド・ブラバンが

ステンドガラスにはめ込まれていました。

感受性が強く、想像癖の強い少年の主人公は、このステンドグラスを見て、

ゲルマント家、そして、現存する当代のゲルマント公爵夫人にあこがれるのです。

この箇所はちょっと日本人には難しいところなんですが、

たとえば日本でいえば、平安の絶世の美人といえば「かぐや姫」などを思い出すでしょう?

かぐや姫は、結局帝の求愛を退けて月に戻ってしまったけど、

実は別の異聞というのがあって、それは表向きの話であって、がぐや姫はこっそりと帝と結ばれて

その子孫である貴族の末裔が現存する「○○家」である、っていわれるのを聞くのと同じ感覚かな、と思います。

そのとき、日本でいえば、江戸から明治に入る頃ですが、

そういわれたとしたら、なんか「あこがれ」みたないなものが胸に生じたりする気持ち、わかりますよね。

まあ、そういったことことが主人公に起こるのです。

とにかく、長いのではしょっていいますと、

主人公はこの「あこがれ」という一種の好奇心が芽生え、

その好奇心の命ずるままに、貴族のサロンに行きたい、と思えば、

なんとかして、そのコネを使って、とうとう当代一流のサロンへも出入りし、

当時の高級リゾートだったノルマンディの海岸へ行ったり、

なかなか華やかな青春時代をすごすのですが、

やがて、自身の宿阿ともいえる喘息が何度も発症し、

だいたい第一次世界大戦とともにサナトリウムで療養することを余技なくされるわけです。

若いときから、芸術にあこがれ、将来は作家になる、と決めていた主人公ですが、

年齢は重ねていたとはいえ、まともな作品はなにひとつ残せないでいました。

そうした、自分からは無為にすごしてしまった時代を取り返すべく、自分の物語を書こう、

と決心したところで話は終わるのです。

(この話は循環しているので、冒頭に戻るのですね)

簡単にいってしまえば、別にドラマティックな大恋愛とか大悲恋とか、

そういうものが起こるわけではありません。

しかし、どことなく『源氏物語』を想起させるところもある、そんな物語です。

この話はもともと当時バルザックやユゴーと匹敵するような作家「サント・ブーヴに対抗する」批判文を

書くはずだったのが、いつのまにか小説になってしまっていた、ということです。

今日でも、バルザックやユゴーなどは名も知られていて、小説も読まれていますし、

作品が映画になったり、ミュージカルになったりしてますが、サント・ブーヴなんて名前は、

この作品を読むまで知りませんでした。

そして、サント・ブーヴの主張のどこにプルーストは反感を覚えたのかまでは

今のわたくしには論じる資格はありません。

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そのほか、スノッブと貴族の問題、

貴族とブルジョアの問題、

ユダヤ人と貴族の問題、

同性愛の問題、

などなど、いろいろと問題提起がその物語の中にされているのですが、

なにせ集英社の文庫で13巻のなが~~~い小説なので、

一口にどうこう、といえる小説ではありません。

ので、せっかく読破したことでもあるし、

これから、何回かにわたって自分なりの思いをつづっていきたいと思います。

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プルーストはカトリックの医師である父親とユダヤ人の母親との間に生まれた、

ユダヤの血を引いた人間です。そして、彼は完全な同性愛者でした。

しかし、小説の主人公は、両親ともカトリックの家庭に育ったことになっていますし、

そうとう好色な人間ですが、同性愛者ではありません。

つまり、これはプルーストの自伝に見せかけた全くの創作です。

しかし、主人公の周りの人間がユダヤ人であったり、

同性愛者であったりする設定は、

主人公も自身の分身であるなら、

登場人物も自身の分身であるわけですね。

そうやって、単なる自伝ではなく、

本当の心の真実を、この小説を通して描いているのだ、と思います。


キリスト教における正統と異端  ⑩ グノーシスと私たちの不思議なカンケイ  [シリーズで考える深い考察]

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最近ちょっぴりだけしのぎやすいですよね。

今日は夫サマと一緒に京都文化博物館へ行って、

「大ヴェネツィア展」というのを見てきました。

大なんてついている割には、ショボイ企画で、これっていう名画は

なんにも来ていなかった。

たまに、「おお、これはミケランジェロの「レダ」じゃないか!」と

よくよく目を凝らしてみると、「複製」↓

ガーン。

あと、スゴイなと思ったのは、井筒です。模様がロマネスクっていうか説明には

「カロリング朝の典型的な図柄」と書いてありましたが、よくわからない。

なんとなくケルトっぽいなぁ~という感想だけ。

でも、素朴だけどとっても惹かれる図柄なんですよ。

yokuさまに教えてもらわねば、ととっさにおもいましたっけ。

一番スゴイなと思ったのは、大きなムラーノガラス製のシャンデリア。

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しかし、これもかき氷の上にかけるようなシロップみたいな水色とか赤でどぎついんだなぁ~。

昔、ヴェネツィアに行ったとき、ヨーロッパレジーナで見た、

透明の繊細なシャンデリアが懐かしい・・・。

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ところで・・・・・。

現代にもグノーシスは生きているのでしょうか?

それとも、とっくの昔に過去の遺物となっているのかな?

今日はまぁ、わたくしの雑感を交えてお話をしたいと思います。

(っていっていつもそればっかりジャン・・・・)

わたくし、子供が小さい頃、ドイツの哲学者であるシュタイナーが唱える

シュタイナー教育っていうのにハマっていたんですよ。

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全体的な印象でいえば、とっても芸術的な子育てだと

思ったんですよね。

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あるいは「感覚」というか「情緒」を大事にするっていうか。

シュタイナーは7年ごとに人間の期間を分けています。

生まれてからは7歳までは、まだ子供はお母さんのおなかの中いる延長のようなものだ。

まだぼんやりと半ばしか覚醒していない。

だからこの時期の小さい子供は、とても感覚が鋭いから、刺激の強いものは避けるみたいな。

味にしろ、音(楽)にしろ、色にしろ、気を遣う。

そのメソッドがたとえようもなく美しい。

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与える画用紙でさえ、鋭角的な四角のものを与えず、角をまあるく切るとか。

わたくし自身、いい加減な人なので、雰囲気だけいただいて、マジメに実践しなかったんですけどね。

で、このシュタイナーの哲学っていうのは「神智学」にたいする「人智学」といって

もともと「ファウスト」なんかで有名なゲーテが提唱したものなんだそうです。

シュタイナーはゲーテの哲学の継承者だったみたいです。

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シュタイナーについても話せば長くなるので、これくらいにしておきますが、

あるとき、オーラで有名な江原啓之さんの著書を読んでみたんですよ。

人はなぜ生まれいかに生きるのか―新装版・自分のための「霊学」のすすめ

人はなぜ生まれいかに生きるのか―新装版・自分のための「霊学」のすすめ

  • 作者: 江原 啓之
  • 出版社/メーカー: ハート出版
  • 発売日: 2001/10/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

ま、この人いろんな本を出しておられますけど、この本が彼の一番いいたいことを書いた本なんじゃないかな

とわたくしは推察しております。

まあ、テレビでは人の過去世を見たり、

お祓いをしたり、となんとなく胡散臭いカンジしますけど、

彼曰く、これは人々に死んでもあの世は存在していることを解ってもらうために、

デモンストレーションしているだけなんだそうです。

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~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

彼は霊能者ですが、単なる拝み屋とか自称祈祷師でもなんでもなく、

イギリスでスピリチュアリズムという思想というか哲学体系を学んできた人なんですね。

彼がというか、イギリスの心霊学団体(という呼称が正しいのかわかりませんが)が、

掴んでいる「あの世」の世界というのが

おそろしいほどグノーシスの思想に酷似している、とわたくしには思えるのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

彼がイギリスで学んできたアカデミックなスピリチュアリズムが説くコスモロジーを

わたくしが理解できる範囲でざっと説明します。

(間違っているかもしれません。その場合、文責はすべてsadafusaにあります)

まず、わたくしたちが生きている世界を現世とよび、死んでのち、住む世界を「あの世」とします。

スピリチュアリズムでは、あの世が本当の世界であり、現世はいっときの世界なのです。

それでは、なぜ現世があるかというと、わたくしたち人間はカミの一部分であり、

カミは常に進化向上を目指している存在であるがゆえに、

現世という場所を使って、いろんな体験をすることにより、

魂を鍛えあげることを目的にしているのです。

なぜ、現世が魂を鍛え上げる、いわゆる魂のトレーニング・ジム的役割を果たしているかというと

あの世では、あらゆる魂がテレパシーというか感応力があって、みんなそれぞれ

つながっているので、孤独を感じない。

そして、思ったこと、すなわち思念が生じれば即、それはかなえられるところなのだそうです。

ですから、「努力」とか身が悶えるほど「苦しい思い」とか「悲しい思い」「うれしい思い」など

しようと思ってもできない世界なのだそうです。

いつも光に包まれた愛が満ちた安らかな世界。

そういうところにいると、魂はいつも安らかです。

でも、こうやって安らかで穏やかな魂も、

一度、現世のように、物質でできていて、

肉体に魂が閉じ込められて

否応なく孤独を感じてしまう地獄のような修羅場に置かれると、

やっぱりそうはいきません。

あの世ではホトケさまのような境地に一見収まっているかに見える魂も

現世では醜い部分が露呈してしまうのですね。

でも、そうやって自分の弱点をあぶりだして反省し、さらなる向上を求めるところに

現世の意義があるのです。

人間も神の一部だと先ほど申しましたが、

それは全体の中でも、非常にきめの粗い一部でございまして、

イメージとしては太陽を思い出してください。

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太陽の中心が、全く清浄でこれ以上にないほど、到達した神の部分、

そして、徐々に輪郭のほうへ移り、放射状に光を発している先の先のほうが、

現世で修行している人間ですよ。

程度の差こそあれ、人間も神の一部。

そうやって、何度も何度も、魂のトレーニング・ジムである地球へ行って修行することによって、

ちょっとずつ、気が遠くなるような時間をかけて、少しずつ、少しずつ、

生まれ変わり、死に変わりして太陽の中心へ向かっているのです。

簡単にいうとこういうことなんですね。

まぁ、スピリチュアリズムの輪廻転生というのは、グループソウルっていう立場をとっていますから、

普通に考えられる輪廻転生とは少しく違うんですけど・・・・。

まぁ、詳しく知りたい方はぜひ、エハラさんの著書をご覧ください。

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~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

でも、この世を一種の「地獄」と定義したり、「人間、すなわち神である」と

定義したりするあたり、まさしくグノーシスの思想そのものじゃありませんか?

実は、シュタイナーの思想もこれと酷似しておりまして、

どうしてこんなに似ているのだろう、と思ったら、英国のスピリチュアリズムというのは、

シュタイナー、ひいてはゲーテの思想から来ているものなのだそうです。

ほんと、ビックリです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

伝え聞いたところによると、イギリスで学んできた江原氏はやはり当然のことながら、

シュタイナー哲学の信奉者なのだそうです。

そのシュタイナーが提唱するアントロポロゾフィ(人智学)というのは、

神秘思想であり、やはり何等かの形でグノーシスの思想にかかわっているものらしいです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

キリスト教は、神と人間という立場ははっきりと分けていますが、

グノーシスの立ち位置はまず「自分は神であるということを認識する」というところから

始まっています。

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そこが、なんといっても決定的に違うところでしょうね。

グノーシス主義的キリスト教は、「この世は低級な神であるヤダルバオトの創造した不完全な世界」だ

というところで一蹴して、現世というものを軽蔑していますが、

神という思念が自らの進化向上のために「物質的」な世の中を作ったと考えれば、

なんかとても納得できたりするのですが、

みなさんはどうでしょう?

今回はエラくキリスト教の正統というところから外れてしまいました。



キリスト教における正統と異端  ⑨ グノーシスと仏教の不思議なカンケイ [シリーズで考える深い考察]

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きのうは、北から涼しい風がふいて、

喘ぎ喘ぎ生きていたわたくしにとって、

束の間の安息を感じた日でした。

更年期のせいか(!)カラダが普段から暑くてしょうがいなんですよねぇ。

若いときは寒がりだったのに。

年をとるということは、だんだんカラダが衰えるということです。

若い頃のように頑張りもきかなくなるし、記憶力もかなり衰えてきたような気が・・・。

でも、悪いことばかりでもないです。

気負いがなくなる分、肩の力を抜いて生きられるような気がします。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

前口上はこれくらいにして本題に入りましょう。

さて、今日のタイトルは本道からちょっと外れるのですが、

グノーシスと仏教についてわたくしの日頃がココロに抱いている所感を綴ってみたい、と思います。

グノーシスの思想を読んだときの感想は

「な~んて東方的なんだろうか」っていうことです。

これって本当に西洋で流行った思想なんだろうか?ってこと。

そして次いで感じたことは、「密教」つまりは「真言宗」に似ているってこと。

密教は仏教ですが、それまでの仏教が二次元的であったら、

あっと驚くような三次元的世界を構築したと思われるのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

原始仏教もキリスト教と同じく、最初は「釈迦」をあがめた宗教だったはずです。

はじめはただ、ひたすらお釈迦さまはこうおっしゃいました、ああおっしゃいましたで、

その教えを実践していたのですね。

仏教っていうのは、その根底に前提として「輪廻転生」って考えがあると思います。

人は生きて死に、死んでは生まれてという営みを、それこそ永遠に続けている。

それはまるで、荒ぶる海の潮にどことはわからず、もがきながら運ばれる人のようだ

と感じておられたのでしょう。そんな制御不能で意味もない「生」になんで執着しなければならないのか。

しかし、死んだとしても、輪廻転生が人間の常であるなら、また因果律により生まれてこなければならない。

それならば、自分でその荒ぶる海を泳ぎ切って、彼岸へとたどり着きたいもの・・・・。

つまりお釈迦さまは、この世をつまり「地獄」とに思われ、この世からの

脱出を考えられるのですね。

その「輪廻転生」の輪から抜け出すことを「解脱」といいます。

お釈迦様はそれこそ、座禅をしたり、断食したり、いろいろな荒行をするんですが、

さっぱりその効果がありません。

しかし、「ああ、こんな肉体を痛めるだけの苦行をしたって何の意味もない」と思いながら、

羅闍耶多那樹(ラージャヤタナじゅ)で静かに7日間瞑想していると

解脱することができたんです。

釈迦のことを「ブッダ」といいますね。ブッダとは「覚醒した人」っていう意味です。

まぁ、「悟り」を得たわけです。

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悟りってなあに?

ってわたくしにもわかりませんが、いわゆる「彼岸の境地」つまり「宇宙のことわり」の意味を

卒爾として理解されたのでしょう。

それしかわかりません。

というわけで、最初、仏教はお釈迦さんのように「自力」で解脱を図ろうとする集団が出現します。

それが、今でいうところの「上座部仏教」ですね。

今でも東南アジアの国は上座部仏教を信奉しています。

ですが、まぁ、生きている人が全部が全部、苦行をしていたらこの世の中成り立ちません。

それで、っていうか考え出されたのが、「大乗仏教」です。

この思想っていうのが結構大胆なもので、

結局、お釈迦様だけを拝んでいても、我々人間が目指すところの

ブッダにはなれないのではないか。

一度、我々が認識できる過去に釈迦という人物が覚醒して「悟り」を開いたのであれば、

我々が記憶していない過去や未来にも、そのような人物がいたであろう、という考え方ですね。

まぁ、そうやって凡夫であっても、この世にいる限り、少しずつ功徳を積んでいけば、

遠い遠い未来において、この世に出現したとき、自らも「覚者」すなわちブッダになることができるであろう

資質と環境と機会っていうのは巡ってくるはずだ、っていう考えです。

(他力本願っていうのは、また時代が下がってからひろまった思想です)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

上座部から大乗に至るまでには、

一元的なものからすでに二次元的なものにダイナミックに変容している、

と思いますね。

過去にも未来にもブッダはいる、と定義したのは、すごい発想だと思います。

この思想は、紀元前後にあらわれたものだそうなんで、

ちょうどグノーシス主義的キリスト教がぼつぼつと

ヨーロッパ世界にでてきたのが2世紀なんで、

時代的にも呼応しているかもしれないですね。

思想の世界というのは、我々が想像する以上に東西の交流が活発だったのだろう、と

考えざるを得ないのです。

キリスト教といえ、仏教といえ、完全に何から何までオリジナルっていうものは

ないのかもしれないです。

この大乗思想は顕教といわれ、今日の仏教のもととなりますが、

それに対して、真言宗は密教と呼ばれ、

二次元的な大乗の世界を3次元的に発展させたものとなります。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

真言宗は、この世の中心には「大日如来」が鎮座していると考えています。

宇宙、すなわち大日です。大日は意訳で、もともとマハー・ヴァイローチャナといいます。

摩訶毘盧遮那如来は「まかびるしゃな」と音を写しているのですね。

奈良の東大寺の大仏さんはビルシャナ仏です。

大光明遍というのは「あまねく照らす大いなる光」っていう意味でしょうか?

んんん~、なんかここにも「ゾロアスター教」の香りがする。

ついでを言いますと、わたくしたちにも一番卑近な仏様であろうと思われる「阿弥陀仏」ですが、

あれですらも、ペルシャの無限の光を表す「アミターユス」とか「アミターバ」という

言葉の音訳なのだそうで。

やっぱり、インドっていうかペルシャっていうかゾロアスターの影響を受けているんですねぇ。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

真言宗が奉じる「理趣経」っていうのは、大変に難解なお経とされています。

大日如来という方は、実は大変に饒舌であり、たえず「真理」というものを

世界の四方八方に向かって説いておられるのだそうですが、

わたくしたちは、例えるなら超音波などが聞こえないのと同じように、

大日サマのコトバは波動が高すぎてキャッチできないのだそうです。

でも、たまに弘法大師(空海)みたいにキャッチして、宇宙のことわりが理解できる人もいるらしい。

で、そのことわりの中には、「男女の交合」は仏の境地に近いとか「愛」というのも、

しょせんは確執のひとつである、とか。

字面を額面どおり受け取ると、まさしく「邪教」なんですよね。

密教って曼荼羅がつきものなんですけど、曼荼羅って要するに仏の世界はこうですよ、って

その世界観(コスモロジー)をあらわしています。

大きく言って、胎蔵界曼荼羅っていうのと金剛界曼荼羅っていうふたつに分かれるんですけど

今は別にそんなことど~でもいいので、さらっとしか触れませんが、

真ん中に大日如来がいるわけです。

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で、花芯の真ん中の鎮座している周りに花弁のように何体もの如来がその周りを囲んでいるわけ。

このまわりの如来っていうのが、大日如来のそれぞれの様相のヒトツなわけですよ。

慈悲の面を強く押し出した如来とか、憤怒の相をした如来とか、智慧の如来とか。

・・・・なんか似ているでしょ?グノーシスの世界観に。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

密教の理趣経の中で、「もはや解脱された人っていうのは、

何をやってもどんなことを望もうと思いのままである」

みたいなことを説いているらしい、ンですね。

それは、グノーシスもいっていることで、

「黄金はたとえ、汚物にまみれていようと黄金たるその本質を失うことはない」

って説いているんですよ。

でも、これってわたくしたち一般人というか凡夫には全く当てはまらないことで、

君子とか、釈迦のように覚者になった人であったら、それが当てはまるという限定つきなんです。

ですから、理趣経というのは、たいへんその真意が分かりにくい取扱いの難しいお経だ、っていうことで

人の目にさらすことを大変に嫌ったものなのです。

ですが、残念なことにやっぱり本質を取り間違えて、邪教に成り下がった宗派っていうのも

過去にあるんです。真言立川流とか。

グノーシスっていうのも神秘的思想といわれるだけあって、

やっぱり、その真意をつかむのが難しいです。

本当は、日本や中国における密教のように、立派な思想があったのかもしれないけど

なんというか、東アジアのように発展できなかったんですね。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

方向がどうしても、意味もなく「禁欲的」であったり

「放埓」になって、強姦したり、殺人したりという方向へ行ってしまうんです・・・・。

あるいは秘儀とか称して男女の乱交になったりね。

とはいえ、こういうグノーシス的思考というのもまた、普遍的な考えかたらしく、

なんの脈絡もなく、この世に存在したりするものなのです。

先述しました、オクシタニアのカタリ派というのもそういう風に、なんのバック・グラウンドもなく

突然発生したものだとか・・・・・。

一説には東欧で流行ったボゴミール派の

グノーシス思想を、誰かが伝搬したものだ、ともいわれてきたのですが

最近ではそれは否定されております。

わたくしは、カタリ派はどうやらテンプル騎士団によって、

グノーシス化したような気がしないでもないのですが。

う~~、あるいはテンプル騎士団がオクシタニアに本拠地を据えたことで

グノーシス化したのか・・・・。

ニワトリが先かタマゴが先かってハナシですね・・・・笑


キリスト教における正統と異端  ⑧ グノーシスの神話 その2 [シリーズで考える深い考察]

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グノーシス的キリスト教とは、趣味の悪いBL仕立てにした、パロディ漫画を読むようなものだ

とは昨日のわたくしの弁です。

考えてみれば、趣味がいいか悪いかは別問題として、「エヴァンゲリオン」ってキリスト教を素材にした、

極めてグノーシス的寓意あふれる漫画のような気がするのですが・・・・・。

エヴァンゲリオンってキリスト教のモチーフがたくさん出てくるでしょ?

だけど、本来の意味とは全く別のものです。

明確な相違点は「エヴァンゲリオン」自身がれっきとしたオリジナルだってことです。

これは大きな違いです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

昨日はオハナシを読んで、なんか難しいな、と思われたでしょ?

グノーシスって、徹頭徹尾、抽象的な概念でしか形成されてないんですよね。

本来、神話ってものは、もっと素朴で童話みたいに具体的なイメージを喚起する力っていうのが

あるはずなんですが、まったくそういうところがない。

ここんところがグノーシスの特徴でしょうか・・・・。

リクツっぽいんです。そして、ヘレニズム文化の影響を受け、ギリシャ哲学的でもあるところです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

さて、ここから昨日の続き。

ソフィアの想念から単独で出現した、いわゆる低級な神である「ヤダルバオト」。

彼は一体なにをしようとしたのでしょう?

不完全な神、ヤダルバオトはあるとき、「天地創造」をしようと決心する。

しかしながら、ヤダルバオト自身が不完全であるので、到底完璧な世界は作り得なかった。

彼は、不完全な「物質」をもって宇宙というものを想像してしまう。

「物質」は不安定なもので、一定の期間、時間というものにそってしか存在することができない。

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あの、先日載せた、「アダムとイヴ」のお話を思い出してください。

なにか理不尽なこといっぱいあったでしょう?

なぜ、神は人を誘惑から断れないようにしたのか、とか。

なんで「命の木」と「智慧を知る木」を置いておいたのか、とか。

グノーシスはここで、ヤダルバオトを断罪しています。

なぜなら、ヤダルバオトが全知全能でなく、未熟な神だからこそ、このような間違いが多々起こるのだと。

なるほどぉ~、これも一理ありますね!

この世には理不尽なことが多すぎる。

努力したって報われないことだって多い。

このことは、どういうことなの?誰か私に説明してください!

となると、グノーシス信者はこういいますよ。

「世の中はキチっとした秩序なんてないから」

「この世は不完全で邪悪だ」

なんという逆転の発想!

この世は全知全能の神ではなく、未熟で不完全な神で作られ、

しかも、「時間」というものにとらわれた「物質」でできたものである。

この世というところは「不条理」な世界。

世の中のものすべてが「死にゆく」運命を背負っている。

・・・・・こういう考えって時にはものすごく「魅力的」なものに思えることってありませんか?

わたくしは、非常に魅力を感じますねぇ~。

みなさまにも「なんで?」と思われる理不尽なことってひとつやふたつぐらいおありでしょう?

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~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

そこで、グノーシスは次のように説くのです。

だから、「この世で成功や栄達を求めるのはムダなことだ」と。

で、次のセオリーがありまして、

とはいえ、この不条理な世界を生きる人間には、ヤダルバオトではなく、

本来の至高の神の一部である、光がその内部に潜んでいる。

至高の神はその自身の一部である、光の回収を望んでいる。

だから、人間はこの世に未練を残すべきでなく、速やかに物質からできている肉体から

その「光」を解放するべきなのである、と。

なるほど、グノーシスってよくできていると思いますよ。

わたくし理科系じゃないんで、いまだに「光」ってモノの定義がわからないんですけど。

物質なのか波動なのか?

古代の人ながら、センスのよさに脱帽です。

で、ここからグノーシスを信じる人々って二つに分かれるの。

「極端な禁欲主義に走る」

「やりたいことは手当たり次第にやる」

つまりはどちらも同じってことですよ。

世の中の価値観を軽んじているってことです。どう過ごしたって、ヤダルバオトの作ったこの世で

ヤダルバオトの作った戒律を守ったところで、

ヤダルバオトの約束してくれた来世なんてないんですから。

グノーシスの考えによれば、この世なんてみんな見せかけなんです。

早いこと、人間なんて絶滅して、この世から撤退したほうが至高の神がよろこぶところなんですよ。

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じゃあ、って全員が全部集団自殺したほうがよっぽど喜ばしいことなんじゃ?

とここまで読んで思われた方も多くいることでしょうね。

理屈からいえばそういう結論になりますね。

ところがどっこい、そうはいきませぬ。

グノーシスは人間には三通りある、と定義しています。

①物質的人間

②心魂的人間

③霊的人間

 え・・・と、本来はですね、プネウマとかプシュケーとかサルクスとか小難しい名前がついているんですケド。

グノーシスって、こういう小難しい名称つけるのが得意なんですけど、

そういうことイチイチ拘泥していても、しょうがないので便宜上このように記しておきます。

①はですね、ぜ~んぶ物質でできている人間。だから死ねばそれで終わり。

③は・・・、体の中にというかその存在の中に至高神の一部である「光」がある人。

 この人は、死ねば肉体から光が解放され、至高神のもとへもどっていける。

②はね~、いくらその手の本を読んでもイマイチわからないんですけど、

 本来ならば物質的人間のように、死ねば終わりであの世の救済がないハズなんだけど、

 生き方次第では光となれる、というか救済の可能性がないでもない人。

・・・・とこのように分類されることができるんですワ。

しかしながら、sadafusa思いますに、その区別ってどうやって見定めるの?

それこそ死んでみなくちゃわからない、と思うんですが。

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すでにこの世で産声をあげた瞬間からその人の運命が決まっているのなら、

「努力」することも、ムダですね。

ある意味、努力して報われなかったことも、「あの世に宝を積む」と思えばこそ、

人間、なんとか頑張れるもんなんですよ。

この教えには、希望の光っていうのが見えません。

こんな達観した考えは受け入れられない人が多いでしょう。

この世は「悪」で「呪われた場所」だなんて、いわれたら。

グノーシスの考えは悪魔的というより、終末的なんですねぇ。

徹頭徹尾、ペシミスティックな考えです。

さっきもいいましたように、極端な禁欲に走るか、放埓に生きるかに分かれるのですが、

それは、グノーシスの中にも多くの派がありますので、解釈に違いがあります。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

中世、オクシタニア、つまり南プロバンスに流行ったカタリ派などは

一説にはグノーシスの系統といわれます。

彼らは、カタリの意味するところ「清浄」な生き方を求めたグループでありまして、

禁欲を旨としたのです。

ぱっと見、正統なはずのカトリックが堕落していた当時、

妻帯は禁じられている僧がどうどうと愛人を囲っていたり、

権力や富を手に入れようと必死になっていたりしているのを見ると、

カタリ派の教えは善良な人々の目には、却って正しく魅力的に映ったのかもしれません。

しかしながら、難しいことはわからなくて入信する人々がたとえ多くても、

入信した人々が、ぱっと見にどんなに正しく愛のある生活をしていたとしても、

根本に「全知全能の神であるヤーヴェ」を全面否定している教えは

自らを正統なキリスト教会であると自らをもって任じているカトリックにとって、

赦しがたい教えであるには変わらないのです。

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たとえば、聖母の神性があるかないかで公会議で敗れ去って異端となったネストリウス派や

キリストの定義を「三位一体」であることに賛成しなくて、敗れ去ったアリウス派などとは

まったく、その本質が違うのですね。

アリウス派やネストリウス派などは、追放されただけですが、

根底にグノーシスの教えを戴いているカタリ派はなんとしても赦しがたい。

赦しておいてはこの世の秩序は乱れたものになってしまうでしょう。

ですから、ヴァチカンはアルビジョワ十字軍を差し向け、根絶やしにせざるを得なかったのです。


キリスト教における正統と異端  ⑦ グノーシスの神話 その1 [シリーズで考える深い考察]

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このシリーズもいよいよ佳境に入ってきました!

ところで、みなさんドラえもん、ご存じですよね?

小さい頃、テレビや雑誌でドラえもんをご覧になって、

「ああ、ボクもそばにドラえもんがいてくれたらなァ」と思った方も多いんじゃないですか?

ところで、そんなかわいい子供の夢であるドラえもんの世界をまっさかさまにした

ブラックな都市伝説があるのをご存じですか?

実は、ドラえもんはのび太が植物人間になってから

のび太の夢の中にだけ存在する、というものです。

一気に、なんだかほわ~ん、とした気持ちが覚めて萎えるでしょ?

それと同じようなキリスト教のパロディが、2世紀頃に世の中に出回りはじめるのです。

その名は「グノーシス主義」!

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~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

さて、グノーシス、グノーシス?

グノーシスとはなんでしょう?

それはギリシャ語で「認識する」という意味です。

認識する、何を?

・・・・それは、自分が神であるということを、です。

えええ~???

それは一体なんのことでございましょう?

ハイ。全くなんのこっちゃですよね。

今まで長々と旧約聖書やユダヤ教について述べてきたのに。

人間は旧約聖書の「創世記」にあるように、カミサマがカオスから天地創造をされ、

7日目に創造されたものではなかったでしょうか?

ハイ、そうです。あっております。

しかしながら、先ほどいった「ドラえもん都市伝説」のように

その天地創造を一気にどんでん返しするたちの悪いジョークのようなパロディ的思想が

世の中を席捲したのです。

じゃあ、それはどういう思想なんでしょう?

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

時代も場所もない空間に至高の神とも呼ばれる存在がいた。

その神は光であった。

しかし、あるときその神の一つの思念である、「ソフィア 智慧」が

他の思念と相談することもなく、勝手に創造したのが「ヤルダバオト」である。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

・・・・この先、続けようかと思いましたが、これだけを書いていても

なんのこっちゃでさっぱりわかりませんね。

本当はもっと、もっと話は複雑なのですが、

単純明快にするためと、そんなところはどうでもいいので

割愛させていただきます^^;

さて、それでは解説をつけていきたい、と思います。

まず、モトのモト、グノーシス的「世界のはじまり」、ですが

まず、なにはともあれ、「神」が存在するのですね。

それは、わかりますよね。

神は誰かにつくれらたわけでもなく、時間という流れにたいして、ある時点から存在したわけでもなく、

つまり、永遠の中でず~~っと存在していたのです。ちょっと難しいかな?

はじめもなく、おわりもなく、存在していた。

そして、神は光であった。

ん?たしか旧約聖書には神が天地創造するとき「光あれ」といって光が出現したのであって、

神が光であるなんて、書いてなかったような・・・。

そうですね。たぶん、「神は光」というのは、ゾロアスター教の影響だと思われます。

ゾロアスター教は二元論で構成されていまして、善の神=光 アフラ・マツダ と 悪の神=闇 アーリマンという

ふたつの存在がいます。

たぶん、だから神=光というのは、ゾロアスター教の影響。

神の思念の一つである、・・・・これも難しいですね~。

う~~ん、何に例えればいいものか・・・・。

たとえば、プリズム。

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光はふつう目に見えるときは透明ですが、プリズムをとおせば虹の七色に分かれるでしょう?

赤、橙、黄、緑、青、藍、紫と別れますが、それと同じように、カミサマも

いろんな様相を持っているということです。様相はいろいろあれど、一つ。

虹色も集約するとまた透明に戻るでしょう?

ということで、神様の中のひとつの側面として「ソフィア・智慧」というのがオモテに現れたんです。

あるとき、ソフィアは自分も「神」を作ってみたいと思った。

・・・・こう書くと、神様が複数いるような感じですけど、

ま、ソフィアは、新たな神の様相を出現させたいと思ったわけですね。

本当はほかの部分の様相にもいろいろと相談して、みんなで新しい神を想像すればよかったのに、

ソフィアは自分ひとりでなにもかもできる、と傲慢にも考え、そして生み出したのがヤダルバアトという

不出来な神だった。

ここで、ソフィア(智慧)は、浅はかな存在として描かれていますが、これもやっぱりオリジナルを

冒涜しているんでしょう?

だって、オリジナルの神は「全知全能の神」なんですよ?

智慧があって当たり前なのに、そういうところを冒涜しているんですね。

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んんん~?

「ヤダルバオト」ってなんですか?なんとなく涜神的響きに聞こえませんか?

そう思ったアナタは鋭い!

ここで、ピンと来た人、「YHWH」を思い出しませんでしたか。すなわちエホヴァとも、ヤーヴェともヤハウヘェとも

いわれる存在です。

えええ、ユダヤ教の全知全能の神ヤーヴェは、グノーシスの手にかかると、

不完全で不出来な神に降格するのですよ!!

いや~、まったく驚かされますね。

いつのまにか、最高神のすり替えがされているわけですよ。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

グノーシス主義っていうのは、なにもキリスト教の専売特許じゃございませんで、

地中海世界に広く伝搬した思想を指します。

ですので、グノーシスといっても大きく言って三つのカテゴリに分かれるのです。

① 東方的グノーシス主義 平たく言ってマニ教(根っこはゾロアスター教です)

② ギリシャ哲学的グノーシス主義  

③ キリスト教的グノーシス主義 ここで主に取り上げるグノーシス主義です。

うわ~、難しいですね。

書いているわたくしも、やっぱり理解したようで全くこなれていないのがわかります。

どうやって適切に説明していいのかわかりませんもん。

ま、とにかく① ②は置いといてください。

ただ、グノーシス主義というのは、キリスト教独自のものではない、と覚えておいてくださいね。

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グノーシス主義っていうのは、なんていうんでしょう、PCウィルスか寄生虫のようなもので、

それだけでは生きていけないものなのです。

必ず、何かの思想なり、宗教にくっついてその宗教の要ともいえるものを腐らせる、

そして換骨堕胎のような悪さをするのです。

どんなふうに?

う~~ん、卑近な例でいいますと、ここに何等かのメジャー路線で頑張っている少年漫画があるとします。

まぁ、「ドラゴン・ボール」とかあるいは「ワンピース」とか。

これらの漫画に出てくる主人公の少年たちは熱血漢で、果敢に敵に向かっていきますよね。

そういうところが人々に愛されるゆえんでしょ?

でも、たとえばこういう素材を使って、マイナーな同人誌にパロディとして「BL仕様」になっていたとする。

と、とたんに熱血漢の主人公が敵と♡♡みたいな仲になってしまったりするじゃないですか?

それって、一部の人には喜ばれるかもしれないけど、作品の冒涜でしょ?

それと全く同じようなことがキリスト教にも起こったんですね。

ちょっと、難しいでしたね~。

それでは引き続き、次回に乞う、ご期待!


キリスト教における正統と異端  ⑥ 原始キリスト教の成立 [シリーズで考える深い考察]

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今日、てっきりフラワーアレンジメントのレッスンだと思って

暑い中を外出したのに、勘違いしていました 爆

・・・・・・ああ~、どれだけドジなんでしょう、落ち込みます↓

落ち込んでいてもしょうがないので、こっちのほうもだいぶご無沙汰ですし、

レッツーゴーです。

とはいえ、書いていると自分がいかにその核心を理解していないか、

客観的によっくわかります。

つたないながらも、いざいざ参る。

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イエスはユダヤ民族にとって長らく待っていた「メシア(救世主)」だと

勘違いされ、却ってユダヤの民の怒りを買って、十字架刑つけられるってところからですね。

十字架につけられるっていう事件は紀元33年ぐらいのことらしいです。

おおよそ、ですが。

イエスが世に出て、宗教活動していたのは、

ごくごくわずか、4年ぐらいのことらしいですよ。

漠然と生まれてから死ぬまでずっと活動していたように思えますけど。

そうじゃないんですね。

で、キリスト教っていうのは、もともと根っこのところが「ユダヤ教」だと申し上げましたね。

そうなんです、ユダヤ人ばっかり依怙贔屓する、民族宗教だったのです。

なぜそれが普遍的な世界宗教へと発達できたのか?ってところがポイントですね。

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さて、ユダヤ人は前にも述べたように彼らの啓典っていうのはimages2323.jpg

旧約聖書とトーラーと呼ばれる律法書なんです。

ユダヤ人っていうのは戒律が好きなんですね。

戒律がスキすぎて、戒律のためなら死んでもいいっていうか

戒律を死守することが生きる目的のようになってしまっている。

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でも、イエスはそうは説かなかった。

戒律を守ることより大事なのは「隣人愛」だと。

それは、「よきサマリア人」というたとえ話にも端的にあらわされています。

ある人が行き倒れになっている、それがたまたま何もしちゃいけない「安息日」だったとしたら?

助けないのが正しいのでしょうか? 助けるのが正しいのでしょうか?

それがたとえ、神が定められた安息日であっても、

その人がたとえ、どんな人であろうとも、

男女の区別なく、身分の区別なく、同郷か異郷かの区別なく、

助けるべきでしょう?

それが神の定めたまいし戒律なんかよりよっぽど大事ですよ、と。

それが「カミサマの愛」であって、どの人もカミサマ視線でみたら、大事なのには変わりがない。

all you need is love

そうです!「人はパンのみに生くるにあらず」

では、なんのために生きているの?

愛を体現するために、生きているのです。

~あなたが「愛」を体現する、それは天にいます神の栄光を表すものだ。~

子供のとき、アタマが腐るくらいこのフレーズ聞きましたねぇ、日曜学校で。

ここんところが、キリスト教の目玉ですね。

この愛という普遍的なことをいろいろなたとえ話を使って、

イエスは繰り返し繰り返し、教えているのです。

ここらへんが、キリスト教の根幹であって、普遍的宗教になれる所以です。

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ただし~、っていう但し書きがつくのですね。

歴史的にみて、これが本当にイエスがいったのかどうかっていうのはまた別な話なのです。

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歴史的にみて、これが信憑性のある歴史史料かどうかっていうには

いくつかポイントがあります。

一番真実に近いものは、手紙、日記類、なのです。

そのとうじ、もしイエスの処刑について述べている日記があれば

史料として一級品になります。

たとえば、ユリウス・カエサルが著した「ガリア戦記」のように。

あれは日記でありまして、回顧録ではありませぬ。

ですから、当時のローマ社会、ひいてはガリア(フランス)の地誌としても

信憑性が極めて高い歴史史料となり得るのです。

ですが、この聖書、一番早く出来上がった福音書もイエスの死後30年はかかっておりまして、

ということは何等かの、おそらくは書き手の思惟が入っており、

事実がそのまま書き写されているわけではないということに注目してください。

おそらく、パウロなどの弟子が布教していくうちに、イエスとはまた違った視点で

事実を改ざんされていたり、またありもしないことをあったように虚飾していることは

大いに考えられることです。

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でも、そんなことキリスト教にかぎらず、どこの宗教にだってみられることですね。

わたくしが思うに、イエスが説いた「愛」というのは

普遍的な概念ですし、

「父親のような愛」『母親のような愛」ってなことは

みな自分が親になれば体験することなんで、

誰が説いても解りやすいし、当然といえば当然といえるところに帰結するんだと思うんですね。

このこと自体に限って言えば、特別に新しい教えってわけでもないし、たいした問題じゃないです。

また、イスラエルがローマ帝国の一部であったのが幸いして、

その当時のローマ帝国、今でいう地中海世界にイエスの教えが広まるのです。

ローマ帝国はもともと多神教でした。

ローマ帝国が強力で、まだ理性的にモノを考えるリーダー、

つまり皇帝によって統率されていたときには

キリスト教のような教えは偏狭的宗教として歯牙もかけられなかったんです。

世の中にはいろんな人がいて、当然いろんな価値観を持っている人がいて

当然だ、だから、却って一神教っていうのは視野が狭い宗教だとして

退けられてきたんです、それに排他的だしね。

ですが、だんだんとローマの力も衰退して、強い指導者がいなくなると

やはり世の中というものは強いリーダーシップをもった何者かに統率されたい、

と思うようになるみたいですねぇ・・・・。

2世紀ぐらいには強くキリスト教を弾圧していたローマ帝国も、五賢帝の世が去り、混迷の世を迎えると

ついにはキリスト教を認めざるをえなくなるんです。

そして4世紀にコンスタンティヌス帝によって国教と認められたキリスト教は

さながら「獅子身中の虫」のごとく、ローマ帝国に守られながらも、ついにはそのローマを破壊するまでに

至ってしまうのです。

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ただし、とまた但し書きがつきますが、

キリスト教を国教にするにあたって、そのときいろいろと異教的なモチーフが絡められていくのですよね。

キリスト教の奥にはミトラ教や、ドルイド教などの影がほの見えます。

つまり、キリスト教はローマの国教になったとき、本来の形ではなく、

かなりローマの都合にあわせてその形を変容させたことになるのです。

とはいえ、常にメジャー路線といいましょうか、あんまり極端に走るものは

嫌われるもので、民衆の望むところ、希望を与える宗教がすかれるのです。

ポピュリズムの勝利、というところでしょうか・・・・。

しかし、つつがなくキリスト教世界が浸透したかに見えた、

ヨーロッパ社会も思わぬところで、足をすくわれることになります。

さて、その試練とはなんだったのでしょうか。

ってなところで次回を乞うご期待。


キリスト教における正統と異端  ⑤ ユダヤ人の宗教 [シリーズで考える深い考察]

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だんだんと難しい方面へとつっこんでおりますね、このシリーズも。

では、ってところでおさらいをしてみましょう。

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もともと、キリスト教の前身というのは民族宗教であるユダヤ教が元になっております。

キリスト教における「聖書」っていうのは、ふたつあります。

「旧約聖書」っていうのと「新約聖書」っていうのですね。

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旧約、新約って何?と思われたムキも多いでしょうが、

そうですね。

旧約っていうのはキリストがこの世の出現する以前、の神と人とがかわした契約の書、

そして新約っていうのは、キリスト出現後、神が新たに人とかわした契約の書、

みたいな意味です。

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なんで、神様が契約を?といぶかしんでおられますか?

そうなんですね、ユダヤ民族ってもともと「契約の民」っていって

なんでも、契約、つまんり「約束」をきちんと守る、果たすことを大事な習慣として

古来よりその伝統を守ってきた人たちなんですよ。

たしか、旧約で創世記だと思うんですけど、アブラハムが自分のナニを家来に握らせて

忠誠を誓わせるというか、約束を守らせるという場面があったと思うんですが、

それはアブラハムが変態なわけではございませんで、

当時も今も男性の一番大事なものをつかませることによって

その「真剣度」がさらに高められるというか、なんというか

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この話はこれくらいにしておきましょう・・・暑いし。

まぁ、わたくしが言いたかったのは、ここら辺の人って砂漠にすんでいるせいか

なんか、「表現」があからさまで大胆だなってこと。

似たようなイメージとしては、アメリカ人が聖書を手に置いて宣誓しているところを思い浮かべてください。

「あなたは神にかけて、それを真実だと誓えますね?」

「ハイ・・・・」

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んで、じゃ古い約束はなんで、

新しい約束はなに?ってところですが、

ユダヤ民族がすみついたカナンの地っていうのは

大変肥沃な大地でございまして、聖書のことばをかりれば「乳と蜜の流れる地」なんです。

ここらへんの地図をみてもらえればわかると思いますが、palestine_map.gif

ここらへんの沿岸沿いばかりが緑が多いけど、

内陸部へいくと、砂漠ばっかりです。

ですから、昔からここは土地の奪い合いが多発した土地なんですね。

もともと、ほかの民族が住んでいたこの土地にユダヤの民がむりやりおしかけてきて、自分の国を作ってしまう。

ここはパレスチナ(ペリシテ人の国)っていうんですよ。

地名がそもそもの歴史を語っているわね。

・・・・・・・

んと、古代イスラエル王国の成立は、

紀元前11世紀だそうです。

(古代イスラエル王国っていうのは、サウルとかダヴィデが建国した国を指すらしい)

んん~古い!

でも、やっぱり相対的にみたら、ほかの国のほうがはるかに

古いんで、やっぱり新参者の国なんでしょうねぇ。

ですが、ユダヤ人のいいわけはこうです。

「この土地はわれわれの神さまが、

われわれに与えると約束してくださった地だ」

「神の御宣託があったのだよ~、おまえらでてけ~!」

「バーロー、お前らの事情なんか知るかよ、

テメェのカミサマって一体なんだよ? カンケーねぇだろ、おれらとはよっ!

あぁ?盗人猛々しいな・・・!コラッ、オイッ!」

って感じですけど、

まぁ、ユダヤの民っていうのはそれを「よすが」に生き続けてきたんですね。

場所をもう一度確認しますと、アラビア半島の付け根、といいますか

GoogleEarthzenatai.jpg

シナイ半島を挟んで、エジプトにもほど近いところです。

(改めて、地図みるとエジプトって緑が豊富です)

文明的にはエジプト文明の、そしてチグリス・ユーフラテス文明、

どちらもの恩恵に浴しているともいえそうですね・・・・。

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さて、ユダヤ人のカミサマっていうのは、ある意味めっちゃくちゃユダヤ人のみに甘いです。

名前は「未だ知られざるもの」といいますが、便宜的にユダヤ人はYHWHと書いていたようです。

でもこれ見ておわかりのように、「YHWH」なんて、子音ばっかりで発音できません。

んので、エホヴァとかエハウヘェとかヤーヴェとよんでいたようですね。

ま、このヤハウヘェって神様はユダヤ人専用のカミサマで

徹底的にユダヤ人ばっかりひいきしていますね。

そして、ユダヤ人はそのことを誇りに思っているっていうか、

逆転の発想っていうのか「われわれは神に選ばれた民族だ」っていう選民思想が発達するんです。

持たざるものは、生き延びるためには侵略することもある意味「正しい」ことなんで。

やっぱり、その意義は正当化しておかないと矜持が保てないんでしょうネ。

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でも、そういうのは他民族からみれば、完全に「ユダヤ人のご都合主義」っていうか

そんなもん、おれたちの知ったことじゃないわ!ジブン、どんだけ偉い思てんねん!

でして、

神の御神託だろうがなんだろうが、彼らは侵略者なんですよ。

で、前回もいったかもしれませんが、ユダヤのよかった頃っていうのは、

サウル、ダヴィデ、ソロモン王の時期でして、

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その後、王国は二つに分裂して、ユダとイスラエルとなり、

そのうちの一つが滅んで、滅亡した国のユダヤ人はバビロンへ強制連行と

結構、苦労するんですね。

それで、ず~っとユダヤ人はダヴィデ王みたいな強烈なカリスマ力をもって

ユダヤ人を率いて王国を再建してくれるリーダーを求めていたんです。

そのリーダーをメシアといいますね。

ほら、だんだん核心に近づいてきたような気が!

つまり、旧約の約束とは

「ユダヤ王国の再建」と「メシアの誕生」なんです。

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旧約には予言の書みたいなのがあって、

その中には「ダヴィデのエサイの子孫の中から

亡国を再建してくれるメシアが生まれるであろう」てなくだりがあります。

だから、聖書にはイエス・キリストの系図っていうのがずらずらと書き込まれているんですが、

つまりは「イエスはメシアと呼ばれるに正統な血筋なんですよ」ってことが言いたいらしい。

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とはいえ、イエスはそのように巷のユダヤ人にある意味「カン違い」されて

熱狂的な興奮に包まれて、エルサレムへ迎えられるんですが

「さあ、いつ戦争おこしてローマから独立してくれんの?」みたいなことを

人々から訊かれると

「わたしは、そのためにやってきたのではな~~~い」

「エッ?」

「わたしは人々のたましいを救いにきたのだ」

ガ~~~ン。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

人々の期待が大きかっただけに、それをくじかれたときの

失望といったらどんなものでございましたでしょう???

「ヤロー、舐めやがって。よくもイッパイ食わせやがったな!」

はい、こういう場合はたいてい人々の溜飲を下げさせるために

リンチですね。

血を見ずにはすませられないのですよ。

・・・・・というわけで、イエスはローマからきた総督であるポンティウス・ピラトスが

ユダヤの人民に向かって

「私がみたところ、イエスは別に悪いことをしたとも思えぬが・・・・こやつは無罪なのでは?」

「いいえ、総督。コイツはユダヤ人の王を僭称しやがったんで!ゆるせねぇ!」

ピラトスは、あ~、やれやれと思いながら、さんざん人々を諌めましたが

結局は十字架刑に処することになったんですのよ。

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十字架刑っていうのは、一番重い刑でして。

当時は。

死ぬのに2・3日はかかる、と言われています。

それだけに死ぬまでの苦痛は相当なものだ、そうです。

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結論として

最初、聖書には旧約・新約っていうのがあるといいましたが、

それはキリスト教限定の話。

ユダヤ教も聖書使っておりますが、それは旧約のみです。

「カミサマがした新しい契約? んなもん、知るかよ、バーロー」

なのですね。

ということで今回はこのぐらいで・・・・。

次はじゃ、この新しい約束(ニュー・テスタメント)はなに?ってところからです。


キリスト教における正統と異端  ④ 正統と異端のはざま [シリーズで考える深い考察]

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今日は、本当はもうちょっと先を進んで「原始キリスト教」ってところから

はじめるつもりでしたが、この暑さでしょ?

ちょっとバテています。

で、今回はちょっと息抜きの考察から。

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サテ、正統なキリスト教、正統じゃない、つまり異端であると決められちゃったキリスト教とふたつに

分けられているわけですが、

その線引きはどこですか?って言われるとハテ?となりますよね?

もちろん、神が地上に降りてきて「啓示」してくれたわけではない。

今のキリスト教はちゃ~んとイエスサマの教えを伝えているの?

そうじゃなかったら、まがいもんだ!本物じゃない!と考えるムキもあるでしょうが

果たしてそうでしょうか?

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

わたくしが考える結論をいいますとね、

別に教義なんてど~でもいい、

もっと極端なことをいうと

宗教なんてあってもなくてもいいんだ、ってところに落ち着きますね。

人間には、死んで彼岸などない。生物としての「死」が訪れたなら、

それでオシマイです。

今まで生きていた、生きて考えていた。

死んだらどうなるんだろう、という意思がありますね。

しかし、もし来世もなにもなかったら、死んだ時点で己の意識もなにもなくなるのです。

ピッ・ピッ・ピッ・ピーー

生まれる前の意識について考える人ってあんまりいないでしょ?

オレがいなかった世界、生まれる前の時点でそれをあんまり怖がる人がいないでしょう?

実はそれとおんなじで、来世がなければ自分の意識が意思、すべてが「無」になれば

「恐怖」という意識も、ありえないわけでいっそ清々しい。

でも~、そう考えてしまうには、あまりにも人間は弱い存在です。

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たとえば、自分ひとりで生きて、自分ひとりだけで死んでいくなら

ま、それもアリな考え方かもしれませんが、

人間、愛する人に「先立たれる」ってことに弱いです。

死んでしまったら、愛する人との間には何もなくなる、ってサバサバ考えることのできる人って

あんまりいないんじゃないかなぁ?

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

以前、わたくしがまだ、キリスト教というものに救いを見出そうとしていた頃、

知人の牧師を訪ねてこんな人が教会にやってきました。

その人は、交通事故で奥さんと子供をいっぺんに亡くしたんです。

絶望のあまり、仏教などでは救われなくて、キリスト教(プロテスタント)に救いを求めて

やってきたわけです。

「こんな私に生きる意味はあるのでしょうか?

 人間の人生ってすごく不公平ですよね?」

と涙ながらに訴えたそうですが、牧師の答えはこうでした。

「あなたの生きる意味は私にはわかりません。人間の人生は不公平です」

・・・・・・・その方は、絶望して教会を去っていきました。

その牧師から直接そのいきさつを聞きました。

わたくし思わずいいました、その牧師さんに。

「・・・アンタ、バッカじゃないの? 牧師やってる資格ないよ!」

「ぼくはただ、・・・・ぼくの信じるところを誠意をもって真摯に答えたんだよ」

フツーの人だったらいいでしょう、一般ピープルだったらね。

だけど、あなたは牧師でしょ? いやしくも宗教家じゃないの?

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

以前、お話したかもしれませんが、大学がカトリックだったので、

そこにフランス系カナダ人の神父さまにお会いして、その傲岸なまでに

確固たる信念、信仰をみて仰天したの体験があるのです。

この方ならおそらく、こう答えたでしょう。

「もちろんです。あなたの生きていることには意味があります。

無意味な人生を歩んでいる人はこの世にはひとりもいません。

なぜならば、どの人もどの人も、天にまします父の大事ないとし子だからです。

あなたの愛する大事なご家族を亡くされたことも意味があります。

それは今は神の国の奥義で、

解き明かすことはできない大きな悲しみとなって

あなたの前に降りかかっていますが、

あなたがやがて神の前に召されたとき、それは解き明かされることでしょう。

そして、あなたがこの世にあって、しっかり生きたことに対して

天の国の門に立ってあなたを出迎えた懐かしい人々は

喝采をもって出迎えられることでありましょう。あなたのその勇気に対して。

あなたは天国の門を凱旋するのです」

それぐらい傲然と、確信と威厳を持って言えなきゃ、神父や牧師やっている意味がありません。

自分だって騙して信じてしまうくらいじゃないと、宗教家なんて務まりません。

青臭いことばっかりいってるようじゃ、ダメ。

究極的にいっちゃうと

宗教家は、悩み苦しむ人々に何等かの救いや希望を与える存在じゃなきゃならないのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

では、この神父さん、一度も神の存在を疑ったことがないのでしょうか?

わたくしの答えは「ノー」です。

そんなオメデタイ人は神父などという人々を精神的に率いるリーダーにはなれません。

たぶん、彼だって人生の中で神の存在を疑ったことは幾度となくあることでしょう。

もしかして、ずっと懐疑的なのかもしれません。

しかし、一度神父になったからには、そんな心の弱みを人にさらしてはいけないのです。

いつの世でも、指導者というものは孤独を抱えながら、

ひとり、高みに立って、人々を導いていかなきゃならないものなのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ま、こういうふうにして、キリスト教ができた当初というのは、

あれやこれやといろんな考えのグループがあったことでしょう・・・。

イエスは偉大な預言者のひとりだった、

あるいは、一番神に近い人間だった、とか

復活はなかったが、偉かったとか

やっぱり復活はあったとか。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

でもね、たまたま偶然、今のキリスト教が主流になって生き延びたともいえますが、

でも、そこに意味がないわけじゃないと思います。

宗教というのは、ある意味一番世俗的なものに民衆が傾くという言いますか

ポピュリズムなものが勝つのですよ。

どんなに精緻で論破できない理論を掲げた宗教であったとしても

それがペシミスティックで希望のないものだったなら

人々はそれを信仰しますか?

おそらくしないでしょう。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ですから、実際にあった、なかったというレヴェルで考えるのではなく

その当時、どうしてもキリストの復活がなければ、人々は救いを見出せなかったのでしょう。

それはとりもなおさず、わたくしにこのように考えさせるのです。

当時のキリスト教社会に生きる人々はそれほどまでに「死」が恐ろしかったのだ、と。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

日本人って人の死を「雲隠れする」とかいうじゃないですか?

なんとなく霧の向こうへふっと消えてしまうような感じですね、イメージ的には。

日本人にとっては死っていうのはわりと親和性の高いものだったんじゃないでしょうか。

アニミズムっていう考えが自然にできる環境だったんだと思います。

そして、仏教とか神道がどうこういうんじゃなく、自然と「あの世」っていうものを

肌で感じて、「死ねば、懐かしい人に会える」とそれほど死を恐れていなかったような気が。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

それに比べて、原始キリスト教社会に生きた人々っていうのは

「死」っていうのは全くの「個体」としての「死」であって、

そこには、つながりっていうのは感じられず、

恐ろしいほどの人と人との間に空隙があるような気がするんですね。

ですから、コトバにはコトバを重ねるようにして、理屈をこねまわしたあげく

三位一体とかなんとか難しい理論を構築してまでも、

「よみがえり」つまり、永遠に命は続いていくってことを信じさせたかった、信じたかったんじゃないかな。

まぁ、裏返せば、それほどまでに「あの世」っていうのは信じられないものだったんじゃないかと

逆に思えてきてしまうんですけどね。


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