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革命期に実在した男装の麗人  テロワーニュ・ド・メリクール [ちょっとした考察]

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フランス革命の男装の麗人といえば、ぱっとオスカル!って連想すると思いますが、

彼女は架空の人物。

でも今日は、フランス革命期にほんとうに男装の麗人が実在していた、って話をしたいなと思います。

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革命以前の旧体制のフランスは、カトリックの教えが人々の生活の奥深くまで

沁みとおっているそういう世界でした。

まさに、子供が生まれたらカトリックの坊さんに洗礼を施してもらい、

12歳ごろになると、堅信礼(一種の大人になる儀式。日本でいうところの元服みたいなもの)、

結婚するときも教会で式をし、

死ぬときは死ぬときで、終油の秘跡をうけ、告解してもらう、

教会の鐘の音を合図に仕事をはじめ、仕事を終えるといった、

生活のリズムができあがっていたのでした。

まさにゆりかごから墓場までカトリック教会に世話にならずには

生きていけない感じなのです。

ま、それはそれでよいのですが、

カトリックには純然たる身分の差は当然というか、自明の理だと認められていました。

人間はそれぞれ自分の身分にしたがって、分をわきまえて秩序正しく生きるのが

人としての道だったのです。

身分とはどのように考えられていたのでしょうか?

今なら身分の差というのは、もともと、その土地の征服者と被征服者の違いだろうと思えるのですが、

当時は違います。

世の中は神の恩寵が深い人とそうでない人がいて、

すごくすごく、神の恩寵が深い人は王冠を授かる運命にある。

つまり王様になれるわけですね。

これがいわゆる『王権神授説』なのです。

そして貴族もそういう恩寵深い人なのです。

じゃあ、第三身分の人、平民はどうなのかというと、神の恩寵があんまり深くない人です。

こういう人たちは神の恩寵から離れているので、王族・貴族よりずっとずっと

能力も低く、容貌も醜く、心根も賤しいものなのだ、とみなされていました。

これねぇ、酷いよね。

貴族って栄養状態がいいから、背も伸びるよね。いいからだしていたと思うよ。

明治時代の人と現代人を比較してごらんなさいよ。

いまの人のほうがダンチにでかいじゃないの。それは栄養がいきわたっているからよ。

革命前の貴族は、ハチでいうなら、ローヤルゼリーを与えられて生きていたようなもんよね。

さしずめ、民衆はみな働きバチよ。

それに、もともと骨格が貧弱なところへ働きづめにしてりゃ、どうしたって

老けるのが早いわね。農民なんて10代の一時期だけよ、若いって感じられるのは。

お肌もかさかさしてるし、お風呂にも入らないから汚いわよ。

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ともかく、このような無知蒙昧な輩を教え導くことが、領主たる貴族の務め。

まぁ、これは建前だよね。

そんなあなた、命をかけて領民を守ってくれる貴族サマがどこにいたっていうの!

領主はいざとなれば、領民のために命も辞さない覚悟を決めて生きていかねばならないかわり、

領民はそういう精神的な重圧から逃れているのだから、分をわきまえて

よく働いて年貢を納めることが肝要とされていたのです。

そう、年貢だけは必ず持っていかれるんだよね。

もう、領主サマに収める年貢やら、教会への年貢やら、なんやらで

もし、10あったら、1手元に残ればヨシとしなきゃならないほどだったのね。

それなのに、特権階級は税金を納めなくてもよかったんザンスのよ~~。

きぃ~、いったいなんなの!!

なんていうのか日本の士農工商みたいな身分制度だったんですね。

百姓は生かさず、殺さずってことば、フランスの農民にもぴったり当てはまるよね!!

第三身分の人々が他の身分に立ち混じれるところはどこでしょうか…?

そうそう、軍隊とか教会ですね!

ですが、こういうところはどんなにすぐれた人でも

身分が低いと上に上がることはないのですね。

反対に貴族だったら、どんなにボンクラでも結構高い地位につくことができるのです。

いきなり大尉からスタートとか

あるいは子供のくせに司教とか。

その代わり、どんなにインテリでも第三身分だったら、村の坊さんどまりとか、

軍人なら本当に頭が切れて、すごく努力したとしても大尉(これだけでもかなりすごい)とか。

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うう、ほんとうに考えるとひどいわぁ。

そこで今日のこのテーマを考える上で重要なことがあります。

カトリックの教義によりますと、女性の男装は「罪」でありますのよ!

あのフランス救国の聖女ジャンヌ・ダルクもたしか、

最後宗教裁判にかけられ、魔女と断罪されましたが、

その罪の中のひとつに「性を逸脱して男のような恰好をして戦いに挑んだ」

のがあります。

ですから~、さしずめオスカルさまは、本当に実在したアンシャン・レジームのフランスの世の中では、

絶対に絶対に絶対に、軍人なんかになれなかったということです。

あれは、まぁ、フィクションなんですよ。

つまり当時は、女性はどんなに優れていても、

男性の活躍する領域には、

少なくとも公式には入れてもらえなかったということです。

(どさくさに紛れて、一緒に戦争に行くのはアリだった)

今日お話しするテロワーニュ・ド・メリクールさんと言う人もそういう

男のダブルスタンダードで人生をめちゃめちゃにされた女性の一人なのです。

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フランスで18世紀末に革命が起こりました。

これまでの体制では、どんづまりで

二進も三進もいかなくなったからです。

もともとルイ16世が即位するときにはすでに財政の危機は訪れていたのでした。

おじいさんのルイ15世は美男で有名ですが、もう政治とかなんとかはそっちのけで

女道一本槍という人です。

彼の庶子はなんと60人以上もいたということですから、そのすごさがわかろうかというものです。

でルイ15世は常々「私が生きているうちは何とか持ちこたえるだろうが…」とはいっていたものの、

緊縮財政をするでもなく、使いたい放題だったんですねぇ。

もう世の中行くところまで行ってしまっていたんですよ。

ルイ16世はそれでもなかなかの名君だったらしいのですが、

時代の波は彼の方には向いていかなかったようです。

この革命はもともと政治形態やら、社会のシステムなどを変えるという目的もあったのですが、

既成の概念を全部ぶっ壊して、新しくて理想に満ちたものを再創造しよう!という

考えようによってはなんかめちゃめちゃロマンティックというか、おめでたい側面もありました。

一番代表的な例はメートル法です。

今も世界水準で当たり前につかわれていますよね。

で、さきほども申し上げましたように、ガチガチのカトリシズムだったフランスも

革命のおかげで「ライシテ(宗教の世俗化)」が進み、

離婚する自由や、宗教を信じない自由もできてしまったのです。

本当は国王が逃亡しなけりゃ、イギリスで国王がその頂にいる

イギリス国教会ができたように、フランス国教会ってものができただろうに、

フランスはいきなり無宗教化していくのですねぇ。

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7月14日、バレ・ロワイヤルでカミ―ユ・デムーラン(ベルばらのベルナール・シャトレの

モデルになった人・ロザリーの旦那様です)が民衆を鼓舞する演説をしました。

そこで民衆のハートに強い愛国心の炎がともり、みんな一斉にバスティーユ攻撃に向かうのです。

ここにひとりの女性がデムーランの演説を聞いて、陶然となっていました。

彼女こそ、フランス革命初期に活躍した革命家たちのアイドル、

テロワーニュ・ド・メリクールなのです。

彼女はもちろん平民、というか一種の高級娼婦でした。

彼女のパトロンとして一時期イギリスの皇太子もいたという話です。

ですが、彼女はほとほとこういう商売は自分に合っていない、と痛感していたのです。

もともと、彼女は聡明な人でこういう女という部分を武器にして生きていくのが嫌だったんでしょうね。

それでも天涯孤独の身、自分の身一つをたよりにして生きて来たのです。

デムーランの演説に心動かされた人々が共有したその場の友愛に満ちた雰囲気を感じ取って

すばらしい時代が来た!と考えたのでした。

で、テロワーニュがえらかったのは、そこで終わりじゃなくて、

もっと深く革命理念を知りたい、勉強したい、と思ったことだったのですね。

彼女の教養はどうにか読み書きはできる程度だったのです。

(当時、読み書きできる人はほとんどいなかったのでこれだけでもかなりエライのですが)

そこで彼女はヴェルサイユの国民会議場にまで赴き、

議員たちが何を話しているのか、直接聞きに行くのです。

今まで系統だった学問を収めたことがない彼女にとって国会が最初の学校となったのでした。

このとき、テロワーニュは、女の恰好をやめ、

乗馬服を着て、腰に一振りのサーベルと二丁の拳銃を下げ、

羽帽子をかぶっていったのです。

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彼女は高級娼婦をやっていただけあって美人だったし、

それにすらりと細身でスタイルもよかったので、

実に男装が似合っていたのだそうです。

そしてたちまち、革命家たちのアイドルとなったのですね。

ただ、彼女の場合、あまりにそれがサマになりすぎていて、有名になりすぎ、

ありもしないうわさが伝説化されて人の口から口へと伝えられ、

どんどんその虚像が独り歩きしてしまったのが、後々彼女を躓かせる元となるのですねぇ。

彼女は、国会の傍聴席に座るために、毎日毎日朝早くから列について並んでいたといいます。

初めは国会議員の演説も、論争を聞いても

何のことやらちんぷんかんぷんでしたが、

それでもマジメにノートを取り、国会に日参していたおかげで

しばらくしたら、本当に革命のことをきちんと理解できる人間になっていたのです。

これは本当に素晴らしいことですね!!

8月26日に採択された人権宣言。

「人間は自由なものとして生まれ、権利において平等である」

彼女はこの言葉を文字通りそのまま受け取りました。どんな人間も自由。権利において平等。

じゃあ、わたしもそうなんだ!って理解したところに彼女の悲劇があるのです。

それに、なまじっか他の男よりも聡明で、弁が立ったのですよ。

そのとき、彼女は「私は男と同等の能力がある! これから女を捨てて男として生きる!」

と決意するのですが、

世間じゃ彼女が女であることをかたときも忘れてはいなかったのですねぇ。

男の恰好できゃあきゃあコスプレしていたところまではみんなやんやともてはやしていたのですが、

理路整然とした口調で弁論するようになると、男どもは一挙に彼女を煙たく思ってしまう。

テロワーニュは、英国皇太子までお客にとるようなココットでしたので、

結構な財産をそのころ貯めていたました。

で、そのお金を使って、革命家たちのサロンまで開いてやるのです。

でもでも、男ってずるいんですよ。

ここまでテロワーニュに金銭面で世話になっていたくせに、

お金が尽きるとテロワーニュをかばってやろうという人間は現れなかったのです。

さて、一旦彼女は生まれ故郷のベルギーに引きこもって、

再びパリに現れたのは1792年。

革命の様子も最初のころとかなり様相が変わっていました。

以前はミラボーが中心となって立憲君主制を推進していましたが、

国王が国外に亡命しようとして失敗し、

国王の人気と権威は失墜してしまいました。

世の中はもはや国王を必要としておらず

共和制を望む声が高まっていたのです。

そして、革命をつぶそうとする諸外国との戦争の機運が高まっていました。

彼女は女性も武器を取って、男性と一緒に戦うよう、みんなに呼びかけます。

「女性市民のみなさん! 私たちの献身的行為によって、敵の策謀の意図を断ち切ることができます。

武器を取りましょう。私たちにはそうする権利があります。フランスの女が18世紀の光明に

少しも遅れをとっていないということをヨーロッパに示してやりましょう!」

素晴らしいですね。テロワーニュ。こんなことまで言えるようになったんだ…。

ですが、世の中の男は決してこれをこころよくは思っていなかったんです。

人権宣言の「人間」というのは、男に限った事であって、女は含まれていなかったのですね。

女は夫に従って、家事をやり、子供をそだてていればいいのだ!

う~む、男の本音が見え隠れしますね!

やはり、理想に燃えている世の中とはいえ、まだそこまで進歩的にはなれなかったみたいです。

ちなみに恐怖政治で有名なジャコバン党の領袖であるロベスピエールは

理想を追い求めるあまり、もうブルジョワ革命を通り越して、

ほとんどこれはプロレタリア革命というか社会主義革命みたいなとこまで

目指した人だと思うのですが、

そんな人でさえ、女性が社会に台頭するのは許せなかったみたいですね。

たぶん、その当時の彼らの女性に対する思いというのは、

その理想の最たるものは聖母、それも「スターバト・マーテル」悲しみの聖母

なんではないでしょうかねぇ。

つまり、男にとって「おふくろさん」っていうのが一番ありがたいもんなんでしょう。

利口ぶって男のようになってほしくない。

どんなに罪深い息子であっても慈しみ憐れむ母。

さかしらげに息子に理路整然と説教する母親とか女房なんていらないんですよ。

そっと後ろから抱きしめてほしい存在なんですよ。たぶんね―。

こういうのって、ロシアにある「聖痴愚」を信仰するのとなんか雰囲気似てますね。

昨日、007シリーズの「スカイフォール」みてましたけど、

ごっつい男、ダニエル・クレイグ扮するボンドをアゴでこき使うのは

小柄な女性上司のM。

国会の審議会の質問するのも女性大臣、答えるのもM。

みんな女性ですよ。

別にそれで卑屈になっている男はいませんからね。

まぁ、イギリスは昔から女王を輩出する国でしたから

そこらへんの耐性は伝統としてあったのかもね。

とにかく、フランスはサリカ法かなんかしらんけど、

女性は王にはなれないの。

フランス人っていうのは、なんかこう理想を追い求めるその純粋なまでのパワーもそうだけど、

いったん許せない!と思ったら、あらゆる汚い手を使って

女性革命家を追い落としにかかるのが本当に熾烈で残酷です。

あいまいなんが嫌いなような気がする…。

ある、女性革命家が

「女性だって、断頭台にかけられたりするんだから、

当然、男と同等の権利はあるんじゃないの?」

と食って掛かったのですが、やはり首だけはきっちり切られて、

しかも権利は認められないのですねぇ~。

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最初は第三身分のものが一丸となってまとまっていた国会ですが、

今では比較的穏健であるとみなされているジロンド派と

理想を求めるあまりに急進的なジャコバン派の間で闘争が繰り広げられていました。

国家っていうのは、国内の福祉とかナントカに目を向ける面と

対外政策との両輪のバランスがとれてないととんでもないことになるんですねぇ。

ロベスピエールも平民の味方だとかなんとか言っていますが、

この人だって大学まででていますからね、貧しいとかいっても、やっぱりブルジョワには違いないのです。

でも、そうやってブルジョワ路線に走ると、民衆が黙っちゃいないのですよ。

とたんに暴動になって、クーデタが巻き起こってしまう。

とにかく、革命というたずなを引き絞るのが本当に至難のわざなのでありました。

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最初はテロワーニュの再登場にやんやと喝采が起こったのですが、

またもや、この二派の中で彼女は追い落としの材料として利用されてしまうのです。

彼女はジロンド派の一味だとして、パリの街の女たちに捕まえられ、

白昼の、それも公衆の面前で思いっきりひどい屈辱を受けることになるのです。

フランス革命っていうのは、高邁な理想を求めて人行われたこの上もなく

美しい行為でもある反面、

なんていうのかな、野卑な民衆がどさくさに紛れて、自分たちが妬ましいと思った人物を

血祭にあげる、っていうそういう卑劣なことも同時に行われていました。

美しくて、スタイルがよくて、聡明なテロワーニュの本当の敵っていうのは、

男じゃなくて、「なにさ、女のくせに男みたいなかっこしやがって。

なんであいつだけがあんなにきれいで凝ったブラウスなんかきてられんのさ!

あたいら、マジメに働いたって、一生そんな羽飾りの帽子なんかと無縁だね!

ハン!気取りやがって!」

とこのように嫉妬されるんですよね。

(女の嫉妬っていまも昔も構造は変わらないですね…)

そうやって下町の女たちは国会の入口でテロワーニュをヤジったのですが、

テロワーニュは毅然として、その女たちをにらみ返したのですね。

これがよくなかった!

態度が貴族的過ぎたんです。

目線が思いっきり高かったというか…。

すごくバカにされた、と思ったみたいですね。

女が五六人でテロワーニュひとりを羽交い絞めにして

彼女の後ろに回り込みテロワーニュのスカートをまくり上げ、

むき出しになったお尻を皆の前にさらしてさんざんに平手うちという

暴挙に及ぶのです。

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それを見ていた男たちはゲラゲラ笑うだけでテロワーニュを助けようとする者はいません。

たまたまそこを通りかかった通称「人民の友」であるマラーがそれを見て、

テロワーニュを助け出したのでした。

マラーはテロワーニュを慰めようと手を尽くしたのですが

可哀そうにテロワーニュは、ショックがきつすぎて何も言い返すことも

おこることもできず、ただ泣きに泣いていただけでした。

これが彼女が人前に姿を見せる最後になったのでした。

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あ、ここでベルばらのオスカルさまを思い出してしまう。

彼女も、なんか似たようなことなかったですか?

あ~、そうそう!

フランス衛兵隊に赴任したばっかりのとき、

女だからってんで、アランたち衛兵のボイコットにあって、

夜中のヴェルサイユ宮殿の庭園でひとりでいるところを

男どもにさらわれて、あわや輪姦(失礼!)されそうになったような???

あれ、従卒のアンドレがすぐに気が付いて守ってくれたから事なきを得ましたが、

彼がいなかったら、やはりオスカルさまもテロワーニュみたいになってかも…。

とかく女の場合、屈辱を味合わせてやりたい、って思ったら、

そういう暴行を働こうとするじゃない、なんだかんだいって最後は。

卑劣よね~~。

テロワーニュには、残念なことに守ってくれるボディガードはいませんでした[右斜め下]

結局世間からも

「淫売のくせしやがって、革命家を気取って演説だと? 笑わせるな! ちゃんちゃらおかしいぜ!」

と一笑に付せられ、冗談で済ませられてしまうのです。

実は結構繊細な神経をしていたテロワーニュはこの泥まみれの屈辱に

耐えることができず、精神がおかしくなり、くるってしまったのです。

それから彼女は死ぬまでサトリペリエール婦人療養所で過ごすことになるのです。

享年55歳。

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晩年のテロワーニュ。
かつての美貌のかけらさえ
残っていません。悲しい

「私ほど無垢なものはいない」  死刑執行人・サンソン  [読書&映画]

 さて、今回は『死刑執行人サンソン ―国王ルイ16世の首を刎ねた男』

についてです。

死刑執行人サンソン――国王ルイ十六世の首を刎ねた男 (集英社新書)

死刑執行人サンソン――国王ルイ十六世の首を刎ねた男 (集英社新書)

  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2003/12/22
  • メディア: Kindle版

この本は、小説でもなんでもなく、まったくの学術新書なのです。

しかし、まさに「事実は小説より奇なり」を地で行ったような内容で、

かつ非常に感銘を受けました。

この本を知るきっかけは、全くミーハーなことで申し訳ないのですが、

マイブームで『ベルばら』にはまっていたとき、

『ベルサイユのばら』のサイドストーリーというべきなのか、

ともかく、40年ぶりで、そういう類のマンガが作者の手によって描かれ、

マーガレットコミックスの⑪、⑫巻と言う形でを刊行されたのですね。

ベルサイユのばら 11 (マーガレットコミックス)

ベルサイユのばら 11 (マーガレットコミックス)

  • 作者: 池田 理代子
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2014/08/25
  • メディア: コミック


ベルサイユのばら 12 (マーガレットコミックス)

ベルサイユのばら 12 (マーガレットコミックス)

  • 作者: 池田 理代子
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2015/07/24
  • メディア: コミック



これを買ったとき、本の中に『イノサン』というマンガのチラシが入っていたのです。

この漫画は今でもヤング・ジャンプかな?に連載中とのことです。

イノサン コミック 1-9巻セット (ヤングジャンプコミックス)

イノサン コミック 1-9巻セット (ヤングジャンプコミックス)

  • 作者: 坂本 眞一
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2015/05/19
  • メディア: コミック
『イノサン』一応9巻までと『ルージュ』の1巻まで読みました。
マリー・ジョセフっていう死刑執行人の妹が途中で主人公に成り代わるのですが、
これが、往年のオスカルさまを愚連隊風に焼き直した感じで、今風にかっこいいのです。
原作とはかなり違いますが、まるでエッチングで描いたような画風で麗しいです。
美しいレースをふんだんに使った衣装が血染めになるのは壮絶なくらい美しい!

物語はやはりベルばらと同じフランス大革命の時代で、

しかも主人公はムッシュー・ド・パリといわれた死刑執行人でした。

チラシには池田理代子さんが「独特の美意識に貫かれていて…」と褒めておられましたので、

おお!面白そう~!!と興味をもったのでした。

この漫画には原作がありました。

それがこの『死刑執行人サンソン』なのです。

筆者はフランス文学者の安達正勝さんとおっしゃる方です。

この方は、他にもフランス大革命期に活躍した人々について書かれた

著書が多くあります。

私は今、佐藤賢一さんの『小説 フランス革命』を読んでおりますが、

合わせて読むとより広い視野でフランス革命を理解できるかな、とも思います。

とにかく、フランス革命関連の本を読んでいて思うのは、

「革命」というものは、例えていえば、

鋭い切っ先の上にバランスを取りながら立つヤジロベエのようなもので、

一つ間違えれば「暴動」に転落してしまいかねないのです。

そうならないために、時は心を鬼にして

人々を粛正してしまわねばならない非情さが必要になるのですね。

あらぬ情をかけたりすると、それは単なる上部の人間の入れ替えにすぎなくなってしまう。

実際、あれほどの犠牲を払って断行したフランス革命ですが、その後たびたびのバックラッシュにあって

王政に戻ったり、帝政になったりしていますね。

中心軸を失った国というのは、もろいものです。

うかうかしていると、他の国に侵略されてしまう。フランスと言う国はそういう内憂外患の中を

生き抜いてきたという歴史があるのです。

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パリの死刑執行人

さて、フランスにおける死刑執行人とはどんな人間なのか。

やはりどんな人間も死は恐ろしいものです。

ましてや、公衆の面前で顔色ひとつ変えるでなく、

人を殺してしまえる人間に恐怖すら感じしてしまうのは

自然な感情かもしれません。

死刑執行人というのは、単なる殺人者とは違います。

公の裁きを受けて、その罪状が「死刑」となったもののみ、

死刑執行人は自分に負わされた役を執行するのですね。

ですから、私情にかられて、怒りや憎しみをもって

人を殺めるのではない、ということをまず確認しておく必要があります。

しかし、死刑執行とは、言うは易いことながら、

ただ単に刀や斧を振り回していれば人は死ねるのかというとなかなかそうはいかないもののようです。

特に、斬首の場合、死刑執行人は毅然とその場に臨まなければなりません。

殺されるほうだって怖いに決まっています。

この殺すほうと殺されるほう、そうして衆人環視の何とも言えない緊張感の中で、

振り下ろす一撃のみで人を死に至らせるのは、かなりの熟練した技と度胸が必要だそうです。

とにかく、さっと殺してやらないと、どうせ助からない人間に何回も何回も切り付けなければならず、

いたずらにその人の尊厳を傷つけ、そして同時に苦痛も味合わせてしまうのです。

当時、斬首される人間というのは、貴族だけの特典!だったので、

死ぬ前にはみな盛装をしてその場に臨んだのです。

アン・ブーリンしかり。メアリー・スチュアートしかり。

こういった人々は美しく斬首してやらなければならないのです。

そうでなければ、場合によっては見ている人間の憎悪も引き起こし、

時には執行人が公衆から殺される場合もあったようです。

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 国王から授けられた秩序の執行者

しかしながら、細心の注意を払って刑を執行したとしても

それを喜び、いたわってくれる人間なんていないのが現実です。

死刑執行人には触れられるのも汚らわしい、おぞましいと思うのが当時のふつうの人々の

偽らざる感情だったようです。

しかも、死刑執行人というのは、世襲制でその役から逃れることができなかった。

王が生まれた時から王に生まれつくように、

死刑執行人も生まれた時から、死刑執行人だったということです。

とたえ、死刑執行人がイヤで、どこか遠くの地へ逃れ

何か別の商売を始めたとしても、

何かの拍子に彼らの氏素性を知ったとたん、

彼らは世間から締め出しを食らってしまいます。

つまり、早晩廃業に追い込まれてしまう。

また、隠しおおせたとして、子供がある時、親や先祖の素性を知ったとき、

子供はなんと思うでしょう?

きっと自分がそうとは知らずに受けついてしまった「死刑執行人」という血を呪うに違いありません。

そういう重責を担ってきたという先代の苦労を知らず、侮蔑に走るのはたやすいことです。

そうであってはならないのです。

天から定められた苦しい役目であっても、

それをきちんとまっとうしなければならない責任が自分たちにはある。

自分たちがいればこそ、この国の秩序が保たれる。

犯罪人は何が怖いといって、「死刑」と罪状が書かれてある判決文が怖いわけでもなく、

それを書いた羽ペンが怖いわけでもない。

彼らが恐れるものは死刑を遂行されることだけだ。

遂行されなければ、この国に秩序はもたらされない。

犯罪を罰し、無辜の民を守るために、神は国王の手に剣をゆだねた。

国王みずからがこれを実行することができないため、

国王はこの任務を死刑執行人たるべく私にゆだねられた。

そういう矜持がなければ、こんな仕事できるわけがないのです。

人間としてまっとうに生きるには、つらい現実に目を背けるのではなく、

しっかり見開いてそれをじっと見続けるという度胸が必要なのですね。

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二律背反の中で生きて

ですが、この死刑執行人という立場の人間は常に二律背反の中で生きていかねばなりませんでした。

彼らは、ふつうの市井の人々から嫌われ、恐れられ、

食べ物などのごくごく普通の日用品を買うのも困難なときがありました。

そして、意外だと思われますでしょうが、やはり死刑執行人というのは、

きちんとその職務を果たすためには、体の構造もしっかり把握しなければならず、

 かなり専門的な医学の知識も必要でした。

また、高等法院の末端に属していましたから、書類などもきちんと書けなければならず、

やはりそれなりに教養も必要だったのです。

サンソン家が立派な教育を受けさせるだけの財力はありますが、

受け入れてくれる教育機関は皆無に近い

結局、遠くの学校へ素性を明かさずに入学させるか、

個人的に家庭教師をつけるしかない。

それですら、大変な困難が伴うのです。

とはいえ、もっとも卑しむべき職業といわれながら、国王からの特権や報酬などは

そこらへんの貴族にも引けは取らないくらい多く、

実際、彼らはブルジョワか貴族のような財産をもち、生活も豊かでした。

また、医者といしての腕前も一流だったので、

やはり、怖いとかいってられない重篤な病気の人もサンソンの家にやってきました。

サンソンは、この副業の医師に非常な喜びを覚えていたようです。

人の命をうばいもするが、その代わり、病気の人や大けがをした人を助けることができると。

サンソンは貴族からは結構な報酬を受け取ってはいましたが、

お金の無い人からは一銭もとらなかったということです。

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サンソン家の系譜

さて、このパリの死刑執行人の家系である

サンソン家は初代から六代続いています。

初代サンソンは、ふつうの家庭に育った軍人でしたが、

あろうことか、死刑執行人の娘にそれとは知らず、熱烈な恋をしてしまったのです。

恋をしたまではよかったのだけれど、彼はその娘に手を出したのです。

父親は、娘が貞操を失ったのをみて非常にけしからんことだと怒り、

自分の商売道具で娘を拷問にかけたのです。

普通死刑執行人の一族は、死刑執行人の家どうしとしか婚姻はできませんでした。

それなのにどこの誰ともわからない男に傷物にされた娘なんて嫁に出せない、と思ったからです。

それを見たサンソンは観念しました。もともと自分が悪かったのです。

拷問にかけられる娘が可哀そうでした。

そして処刑人の娘であろうと、自分は結婚しようと決心しました。

これは運命なのだと。

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シャルル・アンリの苦悩

さて、そうやって淡々と職務をこなしてきた

サンソン家の人たち。

この中でとくに有名なのは巷でも「大サンソン」といわれる

フランス大革命時代を生きた、シャルル・アンリ。

彼は初代から数えて四代目に当たります。

あるとき、彼は「八つ裂きの刑」を執行せよとの通達を受けます。

しかし、これは人間の四肢を四頭の馬に放射状にひかせるというなんとも酷い死刑の方法でして、

非常に苦しい割には、なかなか死ねない。

これまででも「車裂き」という刑を、何回か執行したことがありますが、

これもかなり残酷な刑でしたが、「八つ裂きの刑」の比ではありません。

実際に、シャルル・アンリは八つ裂きの刑を執行して、そのあまりの残酷さに

打ちひしがれる思いをしました。

彼は思います。

「いくら秩序を維持するといっても、これほどまでに非人道的な処刑というものが

あっていいはずがない」と。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ギロチンの発明とその功罪

今でこそ、ギロチンというとその残酷な処刑法で有名ですが、

それは相対的なもので、

やはり、車裂きの刑や八つ裂きの刑の残酷さ、死ぬまでの苦痛の持続の長さなどを考えれば、

ということを考慮しなければなりません。

ギロチンは、失敗が単なるサーベルで首を断つより少なく(誰もがやって成功できるわけではない)

そして、貴族だけが斬首できたことを思えば、どんな身分の人間でも適用されて

平等な温情ある処刑方法だ、と発明当時は思われたのです。

このギロチンの開発には、ギロチンの名前の由来のギヨタンとサンソン、そしてルイ16世が

関わっていました。

ルイ16世は、どうも鈍重な人のように思われがちですが、

結構理系で非常に精密科学への造詣が深く、頭脳明晰な人だったといいます。

ギロチンの刃についても、最初は丸い刃を採用するはずだったのですが、

ルイ16世が「それでは失敗する可能性がある」と指摘して

最終的には今日知られるような形になったといいます。

貴族のようにいざとなれば死ぬこともいとわないという胆力がある人ならいざ知らず、

普通の人間には、斬首という刑そのものを執行することが非常に難しいのです。

なぜなら、もう死刑台に上がった時点で、人間はもうあまりの恐怖に体を垂直に立っていられることすら

できなくなるからなのです。

というわけで、ギロチンは寝そべらなければクビは刎ねられませんので、それなりに合理的な

ものだったのでしょう。

しかし、確実にすばやく死刑ができるということが、災いしてしまうのです。

今まで、物理的に一日にそう何人も処刑することができませんでした。

しかし、ギロチンが出来たお蔭でスイスイ死刑が進みます。

フランス大革命のとき、シャルル・アンリが手をかけた人間は二千人とも三千人ともいわれいますが、

もし、ギロチンが発明されていなかったら、こうもたくさん殺されはしなかっただろうし、

人間が苦悶しながら、死んでいくのをみれば、やはり死刑というものは恐ろしいものだ、

と人々の脳裏にきざまれてしまうのでしょうが、

ギロチンはそういうことを考えさせるヒマもなかったようです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

敬愛する国王の処刑

シャルル・アンリもやはり革命の時代に生きた人間、

第三身分に対する圧制は身に染みるほどよくわかっていました。

ですが、国王に対して非常な敬愛を捧げていました。

この当時の人々のほとんどは、王政廃止は望んでいなかったのです。

ただ、第三身分に対する圧制を緩めて、ゆくゆくはイギリスのように

絶対王権ではなく、制限付きの立憲君主制であったら、と願っていたのでした。

ですが、革命はどんどんと進み、悪いことに国王一家がヴァレンヌで逃亡が発覚したことが

王政廃止につながってしまいます。

国民を捨てて、よその国に助けを求めるような国王はもういらない!

世論はこれまで国王を擁護していましたが、一変してしまいす。

シャルル・アンリはこれまで二度、国王に会ったことがありました。

それはもう、本当に国王としての神々しいばかりの威厳も身に着いた

すばらしい方、と言う風にシャルル・アンリの目には映りました。

この方のために大切な仕事を引き受けているのだとさえ、思えたのです。

ですが、とうとう議会は国王の死刑を確定してしまったのです。

シャルル・アンリは目の前が真っ暗になりました。

シャルル・アンリの不幸というのは、

死刑執行人という逃れられない運命ももちろんですが、

彼があまりにもまっとうすぎるほど、まっとうな人間で、

かつ、人に対して非常に情けがある、温かい人間だったということです。

国王が死刑になる前の日は妻の誕生日で、

彼はせめてその日ぐらいは愛する妻をねぎらい、

楽しく過ごしてほしい、と思っていた。

しかし、そんなわずかな願いも叶えられなくなってしまう

妻が明日、夫が国王を処刑しなければならないことを知ってしまったから。

シャルル・アンリの妻は夫が真っ青な顔をして体を震わせているのをみて

本当に可哀そうに思います。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

今まで、国王の命で行っていた死刑なのに、

こんどはあろうことか、その国王のお命までも奪うことになろうとは。

シャルル・アンリは必死で神に祈りました。

だれか国王の死刑を反対して、当日は大乱闘になるかもしれない。

何か奇跡が起こるかもしれない。

しかし、奇跡は起こらず、シャルル・アンリは心が凍り付いたようにしびれたまま、

まるで悪夢をみているように、国王をこれまでの罪人と同じように処刑したのでした。

シャルル・アンリは自分が国王を手にかけたということでパニックになってしまう。

そして、人づてに聞いた革命に協力しないいう「非宣誓派」の僧侶を探して、

国王のための鎮魂のミサを挙げてもらおうとしたことでした。

非宣誓派の司祭に国王の鎮魂のミサを挙げてもらうなど、ばれてしまったら

サンソンすら処刑されるような大胆不敵な所業だったのですが、

とにかく、信仰に篤いシャルル・アンリはそうでもしないと、正気が保てそうになかった。

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このときのシャルル・アンリの苦悩はバルザックが描いています。

バルザックはサンソン家の人から綿密な取材を経てこの作品を書いたということです。

これはたぶん、フランス文学者である安達さんが、訳しておられるのだと思います。

調べてみましたが、この本は翻訳されたものは見つけられませんでした。

あまりに素晴らしいので掲載します。

バルザック作『贖罪のミサ』

 暖炉の二本の煙突の間に、二人の修道女は虫に食われた古いタンスを運び移していた。

そのタンスは非常に古い様式のものだったが、

祭壇に仕立てあげるために上からかけた緑色のモアレ織の布地で形が見えなくなっていた。

黒檀と象牙でできた大きな十字架が黄色い壁に取り付けられていたが、

そのために壁のむき出しさがよりいっそう際立ち、

どうしても視線が壁に引き付けられてしまうのだった。

ふたりの修道女は、すぐに冷えて固まる黄色い蠟を使って、

即興の祭壇の上にかぼそくて丈の低い四本のろうそくを固定させることに成功していた。

その四本のろうそくが弱い光を放ち、壁が少しだけ光を反射させていた。

光が弱いので、部屋の残りの部分はなんとかやっと見える程度だった。

しかし、聖なるものしか照らしていたないため、

その光は、飾り気ない祭壇に天から注がれてでもいるかのようだった。

タイル張りの床は湿っぽかった。

屋根裏の物置のように両側とも急勾配の屋根にはいくつか裂け目があり、

そこから凍てつくような隙間風が入り込んでいた。

この陰鬱な儀式以上にみすぼらしいものもなかったが、

しかしながら、これ以上に荘厳さにあふれるものもなかっただろう。

近くを通るドイツ街道で発せられるどんな小さい叫び越えでも聞き分けられるほどの深い静寂が、

この真夜中の儀式にある種の重々しい雰囲気を与えていた。

そして、これから行われる行為の持つ意味は非常に大きなものであるのに

周囲の事物があまりに貧弱という、そのコントラストから、

人に畏怖感を覚えさせるような宗教的雰囲気が醸し出されていた。

 二人の世捨人の老婦人はそれぞれ祭壇の両側、床の八角形のタイルの上に跪いた。

床のタイルは身体に障るほどにひどく湿っていたが、それにかまうことなく、

二人の修道女は司祭と一緒に祈りの言葉を唱えていた。

司祭服を身にまとった司祭は、宝石で飾られた金の聖杯を安置していたが、

これはシェル修道院の略奪を免れた祭器なのだろう。

王にもふさわしい豪華さを持つ記念物と言っていい。

この聖餐杯の傍らには、ミサ聖祭のための水と葡萄酒が、

場末の居酒屋でも見られないような粗末な二つのコップに入れられていた。

ミサ典書がなかったので、司祭は祭壇の片隅に職務日課書を置いていた。

ありふれた一枚の皿が、無垢で血に汚れていない手を洗うために用意されていた。

すべてが壮大だったが、卑小だった。

貧弱だったが、高貴だった。

俗世間的でありながらも、神聖だった。

「見知らぬ男」は敬虔な態度で二人の修道女の間に跪いた。

しかし、聖杯と十字架に黒い布がかぶせられていることに――というのも、

この死のミサが誰のためののものかを告げるものが全くなかったので、

神自身を喪に服させたからなのだが――そのときになって気づき

あまりにも生々しい思い出に襲われたため、男の広い額に汗のしずくが浮かんだ。

この場面を演ずる四人の静かな役者は、神秘的な気持ちにとらえられてお互いを見つめ合った。

そして四人の魂は、この上もなく強く互いに作用しあったので、

感情が通じ合い、宗教的憐ぴんの中に溶け合った。

 四人は、その遺骸が生石灰に蝕まれている殉教者を思い浮かべ、

殉教者の影が尊厳さにあふれて彼らの前に現れたかのようだった。

彼らは、亡き人の遺骸もなしに死者のミサを行っていた。

隙間だらけの屋根瓦と木ずりの下で、

四人のキリスト教徒はフランス国王のために神にとりなしを頼み、

なんの下心もなしに遂行された、忠誠の驚くべき行為であった。

神の目には、これは、最高の徳をも試練にかける、コップ一杯の水のようなものだった。

一人の司祭と憐れな修道女の祈りの中に、王政のすべてがあった。

そして、おそらくは革命もまたこの「見知らぬ男」によって代表されていたのであろうが、

その表情にはあまりにもはっきりした悔恨の情が浮かんでいたので、

男が心の底から悔い改めようとしていることを信じないわけにはいかなかった。

普通はミサの決まり文句をラテン語で

「さらばわれ、神の祭壇に行き、またわが慶び、喜ぶ神に行かん」と唱える習わしだが、

神的な霊感を受けた司祭はそれはせず、

キリスト教のフランスを象徴する三人の出席者を眺め渡して言った。

「われわれは、これより神の領域に入ります……!」

 心に染み入るような語調で投げかけられたこの言葉に、

男と二人の修道女は聖なる畏れの気持ちに捉えられた。

ローマのサン・ピエトロ寺院のドームの下といえども、

このキリスト教徒たちの目に、この貧困の隠れ家における以上に

神が尊厳さにあふれて姿をあらわしたことはなかったろう。

それほどに、人間と神との間にはいかなる仲介者も不要であり、

神はその偉大さを自分自身からのみ引き出すものなのである。

「見知らぬ男」の熱意は真実のものであった。

それゆえに神と国王の奉仕者たる、この四人の祈りを一体化する感情も共有されていた。

静寂の中、聖なる言葉は天上のように響いていた。

「見知らぬ男」が涙に捉えられた瞬間があった。

それは「我らが父よ(パーテル・ノストル)」のところだった。

 司祭はさらにそこに次のラテン語の祈りの言葉を付け加えたが、男にもその意味はわかったことだろう。

「また、弑逆者たちを、ルイ十六世自身が赦したように、赦したまえ」

二人の修道女は「見知らぬ男」の雄々しい頬を伝って大粒の涙が湿った道を描き、

床にしたたり落ちるのを見た。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

文豪の筆が冴えわたりますね。

さて、ここからが本書の最大の頂点なのですが、

しばし、本書を抜粋させていただきます。

ミサが終わった後、司祭は二人の修道女に合図して隣の部屋へ行ってもらい、「見知らぬ男」と

ふたりきりになった。

「わが息子よ、もしあなたが殉教の国王の血に手で染めたのなら、私に正直にいってほしい…。

神の目には、あなたが抱いているほどの感動的で誠実な改悛の情によって

帳消しにならない過ちなどというものはないのです」

「殉教の国王の血に手で染めたなら」と言う言葉をみみにしたとき、サンソンは一瞬

ぎくりとし、我知らずに体を痙攣させてしまった。

自分の正体がばれてしまったのかと思った。

しかし、司祭は死刑評決をした国会議員たちのことを思い浮かべたに過ぎなかった。

司祭は「見知らぬ男」が自分の言葉に異様な動揺を見せたことに驚いていたが、サンソンは

気を取り直し、落ち着いた目で司祭を見つめながらいった。

「神父様、流された血に対して、私ほど無垢なものはいません…」

なんとか、こうは答えたものの、声は完全に裏返っていた。

確かに国王の死を決定したのはサンソンではなかった。ただ、道具にされただけだった。

それでも、国王の死刑執行は自分の責任においてなされた。たとえ意に反してであろうとも、

国王の処刑に関わってしまった自分は、やはり大きな罪を犯してしまったのではないだろうか。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

こうした経緯を経て、シャルル・アンリは死刑廃絶を望むのです。

やはり、人を裁くことは人にはできない。

なんとなれば、善悪の基準はその時、その時の人間の価値観で変わるものだからだ。

人を裁くことができるのは神のみ。

しかし、実際にフランスで死刑廃絶になったのは、1981年。

長い道のりだった。


親を選べなかった青年の不仕合せ  『未成年』 ドストエフスキー [読書&映画]

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 この画像の主人公の顔は

小説にあるとおり、貴族的な高貴さと

農奴の野卑さが半々に混じっているように思える。

やっとの思いでドストエフスキーの『未成年』を読了しました。

一応、これでドストエフスキーの大きな傑作と言われている

五つの作品は読了したことになります。(『罪と罰』『白痴』『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』

そして、本作品である『未成年』)

この『未成年』ですが、ロシア文学は登場人物の名前の語尾が

男と女では変わってきたりするんで

なかなか読みにくい、と言われているんですが、

特にこの『未成年』はそういう意味でほかの作品より、群を抜いて難しいです。

というのも、機能不全の一家を描いているので、

主人公の実質上の父親と戸籍上の父親の名前が違うから、余計にややこしい。

そして、例えば、「アンドレイ・ペトローヴィチ」などと作中人物が呼びかけていたりすると、

(実は主人公の父親のヴェルシーロフのことなんだけど)

「誰だっけ?この人?」

みたいになって、迷路に迷い込んだようにハタと立ち止まることになるんですよ。

ですから、最初にググッて、ウィキの人物表をコピーして読むほうが

混乱せずに読めると思います。

通常、このように難解な本には必ず、表紙の裏側とか、付属のしおりなどに

人物の名前とカンタンな経歴が書かれてあったりするものなのですが、

そういう親切が一切ない、かなりキツい本です!

また、この本が書かれた当時のロシアの思想なんてものは、全くわからないし、

ましてや、ロシア正教の教えとか、ロシアの民衆の気持ち、ロシア貴族の矜持みたいなものも

全くわからない。

ですから、正確に物事をとらえようとするのは無理だと判断しました。

多分、こういうのは、もう一生かかってもわからないでしょう。

しかし、こういうわからなさを補ってあまりある普遍的な魅力があると断言しましょう!

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未成年 上巻 (新潮文庫 ト 1-20)

未成年 上巻 (新潮文庫 ト 1-20)

  • 作者: ドストエフスキー
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1969/05/27
  • メディア: 文庫



未成年 下巻 (新潮文庫 ト 1-21)

未成年 下巻 (新潮文庫 ト 1-21)

  • 作者: ドストエフスキー
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1969/06/22
  • メディア: 文庫


う~む

この超魅力の無い表紙、なんとかならないんですかねぇ。

いくら、難解といわれるロシア文学と言われていても、

もうちょっと魅力的な表紙なかったんかい?と思います。

まったく食指が働かないこの表紙…。

読者に「どんな話なんだろう?」と想像の余地を残すような、

そんな本づくりがあってもいいと思うのに。

これじゃあ、「読みたいやつだけ、ついてこい!」みたいな感じ。(星一徹か~~)

読書離れが激しい昨今ですが、出版社さんも

もうちょっと努力してほしいな、と思います。

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この未成年はドストエフスキーの五大傑作と言われながら、

長らく刊行してなかったそうです。

実際、この『未成年』を抜いて巷間では

ドストエフスキーの大作の傑作は四つとも言われているそうですが…。

やっぱり、他のものと比べるとインパクトが薄いような気もするのです。

でも、私の個人的な感想をいえば、『白痴』は本当に読むのがつらかったし、

白痴といわれる主人公ムイシキンに同情はするけれど、共感するにことは到底できませんでした。

それからいえば、こっちのほうが断然面白いけどなぁ。

ドストエフスキーは、機能不全の一家を書くのが非常にうまい作家さんでして、

たとえこういう陰惨なことが、家の中で起こっていたとしても

闇から闇に葬り去るのが世間一般の通念だったその当時、これほどまでに赤裸々に、

しかも綿密でリアルな心理描写をした作品が世に出たこと自体、ほとんど奇跡のような気がしますし、

しかも、ドストエフスキーの作品は、必ずサスペンスの要素が入っていて

最後になってくると、迫力が加速されていって、ページを繰るのがもどかしくなるほど

エンターテインメント性も強かったりするのです。

単なる教養小説ではない面白さがあります。

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本作品は、一見地味ながら、語り口は一人称で手記の形式をとっておりまして、

かなり出だしのインパクトが強いです。

私はたいてい、上巻が終わったところで、作品の解説書などを読んで

作品理解のための下地作りというのを怠らないのですが、

この作品は一切そういうものもないのですね。

頼みの綱は下巻の巻末にある二人の方の解説のみです。

ですが、救いがあるとすれば、翻訳された工藤さんの訳がなめらかで自然な日本語なところです。

しかしながら、読んでいると、作中人物の言っていることが、悲しいかな、ロシア人ではないので、

よくわからないことが多くて・・・・。

いつか岩波とか光文社などから、詳しい解説つきの新刊がでたらいいなぁと思います。

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さて、あらすじに参りましょう。

これは端的にいえば、まだ未成年(ロシアの成年に達する年齢がそもそもわからないけど

20前後でしょうか?)のアルカージィとその父親アンドレイ・ヴェルシーロフの話なんです。

ここで思い出すのが、ツルゲーネフの『父と子』です。

あれも、狂言回しの青年がアルカージィでしたが、

この名前にしたのは、偶然じゃないような気がします。

どうも、ドストエフスキーはツルゲーネフがそうとう嫌いだったみたいで、

『悪霊』の中でも『父と子』の中の実際の主人公であるニヒリストの主人公を徹底的に

こき下ろすシーンも出て来たり、

作中の老大作家はツルゲーネフをモデルにしているといわれていますが、

その容赦ないカリカチュアの仕方は、「お前、どんだけキライなんだい!」って

ツルゲーネフさんが気の毒になるほどです。(汗)

もしかしたら、このツルゲーネフの向こうを張って、自分なりの『父と子』の物語を

描いたのかもしれない、と私は思っています。

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貴族の私生児 アルカージィ・ドルゴルーキー

さて、主人公の名前はアルカージィ・マカーロヴィチ・ドルゴルーキーといいます。

しかしながら、もうそこに誤謬っていうものが生まれていて、

実はアルカージィは戸籍上の父親であるマカール・ドルゴルーキーとは

一滴の血も繋がっていないのです。

彼はドルゴルーキーの妻であった母親であるソーフィアと

この夫婦の雇い主というか、主人であった貴族のアンドレイ・ヴェルシーロフとの

間に生まれた不義の子供だったのですね。

2.jpg

ドルゴルーキー夫婦というのは、ヴェルシーロフ家に仕えていた召使ですが、

単にお金で雇われていたというより、ほとんど奴隷のような僕婢です。

要するに農奴ってヤツです。人権なんて全く認められてないんじゃないかな。

この頃はさすがに農奴解放令はでていたはずですが、

昔からの因習として、そういうのが残っていたんでしょうね。

今まで奴隷で来たものが、「明日から奴隷じゃなくて、生きたいように生きなさい」

と言われても、お金もないし、そういう人間としての自主性とか、教育もないものに、

自由を与えてやっても途方にくれるだけですから。

彼らはこんな風に、もう徹頭徹尾、奴隷根性が生まれた時からしみついてしまっているので、

主人が自分の妻を寝取ってしまうということに対しても怒らない。

仕方がない、で諦めてしまうんです。

そこらへんが、すでに近代化されつつある西洋の社会とは違う

ロシアの病の深さかな、とは思うんですが。

もうそういう出生から、アルカージィの悲劇は始まっているといえそうです。

父親のヴェルシーロフは家僕のソーフィアとの間にアルカージィとリーザのふたりを

儲けていますが、

正妻との間にも男子と女子の二人を儲けています。

ヴェルシーロフは嫡出子、婚外子に限らず子供には全く無関心な男でして、

子供四人は生まれてから、全員里子に出されていました。

しかも、里子に出すという判断も父親自身が采配を振るった結果ではなく、

周りのものが見るに見かねてそういう判断を下したのです。

当のヴェルシーロフはもしかしたら、アルカージィが生まれた、という認識すら

なかったのかもしれない。

ま、なんといいますか、本当に旧態依然とした貴族らしいやりようといえば言えますよね。

フランス革命以前の大貴族なんかはこういう子供に一片の愛情もかけてやらない人間は

当たり前にいたようですし。

しかし、あの革命からどれだけ時代が過ぎていますか? ほぼ1世紀ですよ。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

と、いうわけで

主人公アルカージィは、ずっとモスクワの里親のもとで暮らしていた。

そして、まあ、中学校まで出させてもらっていたのです。

今の感覚でいうと中学しかでてないの?

って感じですが、当時の中学は昔の日本の旧制中学に似たようなものだろうし、

ほとんどの人が小学校ぐらいで教育が終わっていたことを考えると

この中学校を出たということは、かなり高等教育を授けられた、ということになるのです。

アルカージィは中学校の最終学年になる前までは、非常に学業が優秀でしたが、

自分が貴族の私生児である、ということをはっきり自覚するようになると、

なにかこう、鬱屈としたものが心に生じて、最高学年の成績がガタ落ちになり

大学に進学するのもイヤになってやめてしまったのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

というのも、いつの世にもあることですが、

こういう貴族の男と卑しい身分の女の間に生まれた人間って

いわゆるコウモリみたいなもので、

貴族の社会にも、また、平民というか農奴というかそういう下賤な人々の間にも

立ち混ざれない孤独な存在なのです。

だいたいにして、親の不義という事実自体、子供をこてんぱんにするものもなくて、

親というものがそもそも生まれた時点で敬愛できないじゃないですか?

自分は罪の結果の産物なんだ、ということを人にも言われ、自分でも自覚しながら

生きていかなければならない幼年時代を過ごすことは、子供にとってとても不幸なことです。

そもそも、子供は親を選べないのであって、罪の子であっても、

その子供には何の罪もないのですよ。

そう思うと、とてもアルカージィに同情してしまいます。

そうやって、まだ未成年の彼は、自分の中に一つの決心というか

人生の指針というものを見出すのです。

それは、何か―。

これが泣かせるのですが、どんなに貴族から侮蔑的な扱いを受けようと、

自分は目に見えぬ亀の甲羅を着て、いざというときはその中に閉じこもって

そんな扱いをも柳に風と受け流してしまえる術を身に着けること。

そのためには、ロスチャイルドのように、お金をコツコツと貯め、

拝金主義者どもをひざまずかせること。

自分はお金にくらむわけではない。

だが、お金というものは力がある。自分はその力を身に着けたいのだと。

ああ~。読んでいて胸が痛くなります。

愛に餓えて孤独に育った子供はそんなふうに考えるもんなんですかねぇ~。

また、彼は今のところの「自分の理想」を論破されないために寡黙でいることを

自らに課した。

…しかしながら、こういうタイプの人間って孤独なもんだから常に二律背反の行動を

していしまうもんなんですねぇ。

というのは、やはり人間、全くの沈黙に耐えながら生きていくことはなかなか苦しいものなのです。

だから、いつも饒舌にならないように、と気を付けていても、何かの瞬間、

しゃべりたい、という欲望にふたをすることができなくなるもなのです。

自分の胸に秘めていることを誰かに話して「立派なことだねぇ!」と

称賛してもらいたい、認めてもらいたい、という欲求が抑えることが時としてできなくなる。

しかし、そうやってしゃべりすぎた後、どっと後悔の嵐がその身を苛むことも

かなりアルカージィには辛いことだとわかってはいたのですが…。

また、あるところでは非常に意味深長なことも書かれていまして、

ほとほと私を感心させたのがこの一文。

『わたしはワーシンのそばへ寄ると、すっかり嬉しくなって彼を褒めちぎった。それがどうだろう? 

もうその晩には、私はもう彼をさっぱり愛していないことに気づいたのである。なぜか? 

彼を褒めちぎって、そのこと自体によってわたしは彼の前に自分を卑下したからである。

(中略)

中学校へ入ったばかりの頃から、学友の誰かが、勉強とか、気が利いた返答とか、体力とかで

少しでもわたしを抜くと、私はすぐにその生徒と遊んだり話したりすることをやめた。

その生徒を憎むとか、しくじりを願うとかいうのではない。

ただ背を向けてしまう。それがわたしの性分なのである。

そうだ、わたしは生涯ずっと威力を渇望し続けた。威力と孤独をである。』

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同じ兄弟とはいえ、
貴族の嫡出子の兄とアルカージィとでは
扱い方が天と地ほどの差がある。

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アンドレイ・ペトローヴィチ・ヴェルシーロフ

とまれ、アルカージィは中学校を卒業したあと、モスクワをあとにし、

今までほとんどあったことのない両親と妹に会いに行くのだった。

彼は今までのことから、両親から温かいもてなしなんかを受けることなんかは

夢想だにしなかった。ただ、自分の実の父親とはどんな男なのか、興味があっただけ。

どんな悪党なんだろうとね。

しかし、モスクワではちらと耳にはしていましたが、

ペテルブルグの両親は、まさかこれほどというくらい、貧乏生活を強いられていたのです。

というのも、父親のヴェルシーロフは、絶対に自分が豊かだったころのライフスタイルを

変えようとせず、今まで相当な遺産があったにもかかわらず、

それを全部蕩尽させてしまっていたのでした。

それでいて、じゃあ、どんなろくでなしなのか、と思いきや

結構、ヴェルシーロフはかなり魅力的な男なんでした。

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…しかし、私にしてみれば、こういうよくわからない人間が一番厄介だと思います。

悪者なら徹頭徹尾悪者でいてくれたほうが、アルカージィのような人間は

却って救われるんですよ。

こういう、白か、黒かわからない、グレーゾーンにいる人間というのは、

人に「もしかして?」とあらぬ期待をさせるものなのです。

だいたい、DVする男ってこういうグレーゾーン型が多いんですよ。

めちゃくちゃひどいことをされながら、雨上がりの空みたいに、ぱっと光がさすような

そんなやさしさを垣間見せるというか。

人間は弱いものだから、そういうたまさかのやさしさが

その人の本質だと思いたくなるもんなんですよねぇ。

それで永遠にその暴力の呪縛から逃れられないというか…。

ドストエフスキーはそういう病理をよくわかっておられますね。

とにかく、ドストエフスキーの五大傑作といわれる作品は

両親が揃って健全な家庭というものは皆無です。

『罪と罰』と『悪霊』はたしか父親が早く亡くなっていて不在だし、

本作品と『カラマーゾフの兄弟』は、父親がこんな具合にダメ親父だし、

『白痴』はどうだったのかなぁ? ムイシキンはたしか公爵だったような気がするけど、

孤児ではなかったっけ?(ごめんなさい。うろ覚えです。)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

事件の発端 

ペテルブルグに住むようになってまもなく、アルカージィは

中学時代の友人の集まりに参加した。

そこで、友人を介して紹介されたクラフトという男がいた。

アルカージィより、ちょっと年配で26歳だという。

そこでクラフトは「あなたに関係あるある手紙を一通もっている」という。

さて、クラフトが持っていた手紙というのは、どんなものだったのか。

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それは、ひとつひとつ言うと非常に複雑でかえって読み手の方を混乱させるので

端折って言いますが、実の親であるヴェルシーロフは遺産の訴訟をしていて、

今のところはヴェルシーロフに有利にことは進んでいるけれど、

この手紙は、ヴェルシーロフにいささか不利になる文言が書き留められているということ。

クラフトは、自分にはどうすべきか判断に迷うので、実の息子である

アルカージィにこの手紙を託す、ということだった。

結局、このことが幸いして、アルカージィは実の父ともそうとう近しくなるのです。

訴訟に勝って、ヴェルシーロフは大金を手にしました。

今までは、貧窮に喘いでいた一家ですたし、アルカージィも前述した

一種独特の独立不羈の信念を貫くはずでしたが、

お金の力って怖いですね。

あっという間にそういった信念も崩れて、アルカージィも父親のヴェルシーロフよろしく

あぶく銭を、その名の通りあぶくのように蕩尽し、

身なりも上流貴族と見まごうような超一流のものを身に着け、

ルーレット賭博にまで手を出すようになりました。

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~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

アルカージィは金という威力を身に着けたからには、向かうことろ、敵なし、と思ったのでした。

ですが、まさかの出来事が出来します。

賭博場で「いかさま」をやったと濡れ衣を着せられてしまうのです。

それも、自分が本当の貴族ではなく、卑しい女との私生児だというだけの理由で!

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

聖痴愚 マカール・ドルゴルーキー

あまりにショックを受けて、アルカージィは熱を出し、

何日間か昏睡状態に陥るのですが(ドストエフスキーの登場人物はすぐにこうなる)

その間に、アルカージィの戸籍上の父親である、マカール・ドルゴルーキーが

ペテルブルグの母親の家にやってくるのです。

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この男もなんていうのか、ちょっと日本人にはなじみにない感じの男で、

要するに、ロシアによくいる聖痴愚と言われる部類の巡礼者なのです。

全くの正当な正教の教えからは外れているのでしょうが、

ロシアの小説にはこの聖痴愚というタイプの人間はよく出てきます。

日本でいうところの、能なんかに出て来る旅の聖みたいなもんでしょうか?

こういう人は別に、教会や寺院で戒壇を受けて正式な聖職者になったわけではなく、

勝ってに世を捨てて、巡礼している人たちです。

まともに聖書も読めなきゃ、当然聖職者なら知っているはずの神学や哲学なんぞも納めていない

ただの遊行の聖です。

ですが、こういう人というのは、一種の神聖さをまとっているというか、ある意味、知力を備えた

聖職者より、貴いところもあるので、よく民間ではあがめられたりもするんですが…。

まあ、ドルゴルーキーはお屋敷のご主人さまに妻を寝取られて、不平もいわず、

巡礼になったのでした。

そこがなんか私には腑に落ちないところでもあるんですけれどね~。

で、解説によりますと、このドルゴルーキーはドストエフスキーの次の小説である

『カラマーゾフの兄弟』に出て来る高徳の僧侶であるゾシマ長老に先駆ける人物らしいですが、

ちょっとそれは飛躍しすぎなんではないかなぁ~と読んでいて思うわけです。

どうも薄っぺらい印象が免れないんです。

きれいごとしかいわないというか。

一番、不思議なのは、そんなに立派な男がうまうまと自分の女房を人に取られて黙っているのか?

おかしいだろ? もっと怒れよ~、なんで怒らないんだろう? と思うのです。

母親のソーフィアと戸籍上の父親のドルゴルーキーはほとんど親子ほど離れていて

実際、ソーフィアをわが娘のように育て上げたのがドルゴルーキーだったんです。

そして、ソーフィアが18歳のとき、嫁にもらい受けたのですね。

そこに、お屋敷の若様が来て、ソーフィアをわが物にしてしまったのです。

ソーフィアは若様に盾突いて否やとは言えなかったのかもしれませんが、

でも、こう自分というものがなくて、人のいいなりになってしまう、というのは

どうなんでしょうかねぇ。

まぁ、出会ったときのヴェルシーロフは、当時妻を亡くしたばかりで、25歳の輝くような

美青年だったのです。

そのとき、ソーフィアは18歳だったし、もうすでに50歳を軽く越えた実の夫よりも

ヴェルシーロフが魅力的に見えたに違いは無かろうし、実際、憧れていたんでしょう。

でもね、別にソーフィアは『悪霊』に出て来る農奴出身のダーシャみたいに

飛びぬけた美人というわけでもなく、ただただ純朴な田舎娘だったのです。

ヴェルシーロフは、どういうつもりでソーフィアが気に入ったのか、そこはそれ

男女の愛の難しいところなんですが、

思うに、こういう鈍いといっていいくらい素朴な女の傍にいるということは

魂の高揚などはないぶん、リラックスして和むという効用があるのかもしれないです。

まあ、なんにせよ罪なことには違いない。

最期にマカールは、あのときソーフィアを赦して旦那様に渡してやるのではなく、

したたかに鞭で打ちすえて己の犯した罪をわからせるほうが慈悲だった、みたいなことを

言っていますが、それは本当にそうだ、と私も思います。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

運命をあざなえる三人の美女 リーザ、アンナ、カテリーナ

そしてまた、この小説には主要な三人の美女が登場します。

ひとりはアルカージィの妹のリーザ。

彼女は『悪霊』の中のスタブローギンの幼馴染のダーシャを思わせるところがあり、

あろうことかそう好きでもないのに、セリョージャ公爵の子供を宿していたりして、

よくわからない謎な妹です。

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もう一人は、億万長者のソーコリースキー老公爵の娘で

アフマーコフ将軍の未亡人である、カテリーナ・ニコラーエヴナ・アルマーコワ。

この人はいくつくらいなんでしょうか?

多分三十前後。もう絶世といっていいくらい美しい人なんです。

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アルカージィはこの人に憧れて、好きになってしまう。

三人目はアルカージィにとってみっつ年上の異母姉である、

アンナ・アンドレーヴナ・ヴェルシーロワ。

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この三人は、一見素晴らしく上品で立派な心映えの女性に見えるのですが、

本当の腹の中はよくわからない。結構、あくどく汚いことも考えていたりするのですが、

頭が相当にみんないいので、容易にそれを悟らせてくれません。

特にこのカテリーナとアンナの対立というのは、

カラマーゾフの兄弟のドミートリィをめぐるカテリーナとグルーシェンカを思わせるのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

さて、そんな中、ソーフィアの名前ばかりの夫であったマカール・ドルゴルーキーが

老衰のため、亡くなります。

ロシア正教の教えでは、離婚はできず、

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母親のソーフィアとヴェルシーロフは実質上は夫婦であっても、

きちんとした結婚はできなかったのでした。

アルカージィは、今度こそヴェルシーロフも母親と結婚するだろう、と思うのですが、

しかし、そうは問屋は降ろさなかった。

実は狂乱の恋に悶えていたヴェルシーロフは、何もかも捨てて、

ある女に結婚を迫ろうとするのです…。

たぶん、ヴェルシーロフのような男は、生涯男として現役でいたくて

収まる所に収まりたくないのだろうと思います。

いかにも、ロシア貴族らしい手前勝手な人間の考えそうなことですね。

とはいえ、その気持ち、わからないでもないです。まだヴェルシーロフは40代ですしね。

ここら辺の油ギッシュな感じは、カラマーゾフの極道オヤジのフョードルに通じるものがあります。

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ここからは、手に汗握って本を読んでほしいですね!

ドストエフスキーの小説の展開の仕方は

たいてい決まっていまして、

途中までは、みな理性的でほどよく自制が効いているのです。

西洋的な知性のとれた貴族的な雰囲気ですらあるのに、

どうしたはずみなのか、そういった上っ面は途中から吹き飛んで、

ロシア固有の血の濃さゆえなのか、狂気が支配するのです。

そして、コツコツとそれまであらゆる登場人物が築いてきたものを

突然、怒涛の嵐が巻き起こすごとく、あらゆるものをなぎ倒していって

すべてが空中分解してしまうのです。

そういったカタストロフィーも楽しんでいただけたらな、と思います。


狂気と正気のはざまで   シャッター・アイランド [読書&映画]

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最近、HULUに入会しました。

結構、映画館へも行っているような気がしますが、

やはり、見逃した映画も多々あります。

以前はTUTAYAに行ってレンタルしていたのですが、

一定額で映画が見放題だともうクセになりますね。

楽だし、手軽だし。

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さて、今回はそうやって見た作品の中から

大変印象に残ったものを一つ、紹介します。

それはシャッター・アイランド。

監督はマーティン・スコセッシ。

主演、レオナルド・ディカプリオ。

う~~ん、レオさま渋いです!

レオさま、若いころは長身痩躯で金髪碧眼のものすごい美青年でした。

でも、本当のことをいうと、私は個人的にいえば実は造型的にそれほど好きな顔でもなくて、

(というか、私はわりと細面の顔が好きなので)

それほど、レオさまの作品を積極的にみようか、という強い意欲はなかったのですが、

最近、そうだなぁ、『インセプション』とか『レボリューショナリー・ロード』などを

見たころからでしょうか、

壮年に達したガタイの良いレオさまは、若いころとはまた違って、

ものすごく魅力的だな、ってことに気が付いたんですよ。

オヤジになってからのレオさまのほうが、若いころより断然いいです。

壮年に達してもなお、目だけは若いころと変わらず、澄み切ってイノセントで、

それがとても悲しいくらい雄弁に語りかけて来るようで。

レオさまは、常に妻や子供との平凡で穏やかな毎日を希求しながら、

それが叶えられない悲しい男を演じると右に出るものはないような気がします。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

さて、あらすじ。

1950年代初頭。アメリカ。ボストン・ハーバー。

連邦保安官のテディこと、エドワード・ダニエルズ(レオさま)と捜査部隊から駆り出されたチャックは

ある事件の捜査を依頼された。

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それは、重篤な精神疾患のある犯罪者のみを収容したボストン・ハーバー沖の断崖絶壁の孤島に赴き、

そこで脱走した女囚レイチェル・ソランドを捕らえてほしい、というもの。

ここの患者は野放しにしておくにはあまりにも危険すぎる人物ばかり…。

件のレイチェルも、自分の子供三人を池で溺死させたという。

ここはまさに、その名の通り、シャッター・アイランド。

陸と孤島を行き来するフェリーに乗らない限り、

絶対に島から脱出することはできない。

しかも、フェリーに乗るまでには、果てしない検問を潜らなければならないのだ。

そんな物騒なところへなぜ?

でも、テディには個人的にそこへ行って確かめなければならないことがあった…。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ところで、テディはある不幸な経験を背負って生きていた。

それは、第二次世界大戦中、彼はポーランドのダッハウのユダヤ人収容所の

解放に参加していたのだが、

そこで何百というユダヤ人の遺棄されて凍り付いた死体を目にする。

まるでこの世の終わりのような凄惨な光景。

特にテディはその死体の山の中にある、一つの母娘の姿が脳裏から消え去ることはなかった。

まだ幼い娘をかばうように、抱きしめながら目を閉じている母親。

また、幼い女の子のあどけない死に顔。

あまりに酷く、それでいてその親子の姿は

人間が表現しうる究極の愛の強さを、見るものに訴えかけてくる。

その一方で、同じ敷地内に立つ、残酷な殺戮をやってのけるナチの党員の住居は、

それがまるで同じ土地にあるのが不条理に感じるほど、贅をつくしたものだった。

しかし、連合軍がユダヤ人解放のためにやってくると、

ナチスの将校たちは観念して自裁した。

テディが踏み込んだある将校の屋敷の部屋には、死のうとして、ピストルの引き金を引いたものの、

当たり所が急所からずれていて、死にきれずもがいていた将校がいた。

血溜まりの中でもがく瀕死のナチスの男。

そんな場所に、場違いのように美しいマーラーのピアノ四重奏 イ短調のメロディが響いていた。

美しいメロディとその光景は、始終テディの悪夢と共に蘇ってくるのだ。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

さて、そんなトラウマもありながら、さらにテディはもう一つ根深い心の傷を抱えていた。

実は彼の妻は、放火魔の放たれた火によって、死んだ。

その後の情報によると、その放火魔、(名前をレディスというが、)

どうもその後、このシャッター・アイランドにいるらしい。

どうしても、妻に対する復讐をしたい、と思っているテディは

女囚を捕らえるという表向きの依頼をきっかけに、その島に潜入することができたのだ。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

だが、一歩、その島に入ってみると、

一応職員らはみな愛想よくふるまってくれるものの、

捜査には全く協力的ではない。

皆、一様に何かを隠しているようなのだが、

それが何なのかを告げるものはいない―。

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不思議な手ごたえのなさを感じるテディ。

ある晩、島にハリケーンが上陸した。

一時的に島はガスも電気も通わなくなる。

そこで、誰も近づいてはならないと言われていた、超重篤な精神疾患患者ばかり集められた

C棟へ潜入するテディとチャック。

そこには、この島にはレディスがいるかもしれないという噂を教えてくれた男が

廃人さながらにして監禁されていた。

その男は、この島の本当の秘密を教えてくれる。

「この島は、秘密裡に人体実験をしている。

政府に盾突く人間を罠にかけて

このシャッター・アイランドに送り込み、精神患者に仕立て上げ、

そして、最後には極秘裏に灯台の中でロボトミー手術をして、廃人にしてしまうのだ」と。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

衝撃的な事実を聞かされて、ショックを受けるテディ。

事実が真実かどうかを確かめようと、灯台に向かおうとするが、そこで

ある洞穴に灯がともっていることに気づく。

そこには、なんと逃げ出したと言われている女囚レイチェル・ソランドがいた。

だが、レイチェルは言う。

「私は、女囚なんかではない。ここの医者だったのよ。

だけど、ここの秘密を知ってしまったの。だから、精神疾患があることにされて、

捕らえられてしまったのよ。

ここでは、一度精神疾患があるという烙印を押されてしまったら、

どんなに抵抗してもダメよ。

ますます、重篤な症状があると言われてしまうの。

あなたは、すでに罠にかかっている。

ここでもらったたばこや、コーヒーにはすべて薬が入っているのよ。

もうすぐ、薬が効いてくる。指先がしびれて来るのよ、まず。

そしてだんだん、何にも考えられなくなって…。

あなたはロボトミー手術をされてしまうの」

なんということ!

テディは戦慄する!

早く逃げなければならない、が、しかし…。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

話はここまでにしておきます。

これから先は教えられないですね。

ばらばらのパズルのピースがピタッと収まる感覚が爽快だし、

かといってそれが実は本当に真実なのか?という疑念も生じて来るのですが、

その判断は見ている我々にゆだねられているんですねぇ。

上手い映画だと思います。

戦慄のラストですよ。

本当に面白かった!

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

最後にちらりとコメントを申し上げますと、

この映画は人間、あまりに辛い真実を正気で受け止めるよりは

真実よりもう少し甘く自分に都合のよい

狂気の中にいるほうがマシな場合もある、ってことを

見てる側はひしひしと感じるんですよ。


三月読んだ本のマトメ [読書&映画]

最近、so-netの調子が悪いです!

というか、私のPC、ちょっと前に買い換えてwin10にしたのだけれど、

なんというかすごく使いづらい。

そして、初期設定の段階でものすごく排他性が強くしてあるのか、

ログインしても、すぐログアウトを勝手にされてしまうのですね。

まあ、そういうのもいろいろとネット検索して、

設定を変えれば、よくなるんだろうけど最近、

そういうチマチマしたことするの、嫌になってきたりしてるし。

おばさんはね、キカイに強くないのよ。

ああ、XP時代が懐かしい。あれでよかったのになぁ。

最近、ちょっと調子悪くて、本も読んでない、

というかアニメのベルばらにはまりすぎて、

アニメばっかり巻き返し繰り返し見てたから、あんまり突っ込んだ本が読めなかったなぁ~。

アニメって原作と全然違うね。

あれはトラウマの話だったんだなぁ。

つい自分の心象風景を重ねて登場人物を見てしまうからか、思い入れもひとしおよね。

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ルパン対ホームズ (ハヤカワ・ミステリ文庫)感想


読むのが苦痛だったぁ。

筋というかトリックがレトロすぎて、全然ハラハラドキドキ感がない。

ただ、ホームズの冷静沈着さ、ルパンの大胆奇抜さ、

どちらも英仏にその名をとどろかせた傑物ゆえのプライドをかけた応酬は見事だったが。

私は、ルパンシリーズを全巻踏破するつもりでしたが、もうそれはやめにしたい、と思います。

これ以上読むと読書がキライになりそうなので。
読了日:3月27日 著者:モーリス・ルブラン


 

恋するソマリア恋するソマリア感想


高野さんのソマリラヴな気持ちは一冊の本を書き終わるだけではすまなかった。

以前はソマリランド中心だったが今回はソマリアがメイン。

ソマリアを具象しているのは、ホーンケーブルテレビの豪腕姫・ハムディ。

この人は生粋のソマリ人なのだろうか?

西洋人のハーフのように色が白く、整った顔立ち。

さながらアラビアンナイトのお姫様のようで写真で見るだけでも絶世の美女。

しかし、彼女もソマリアも気難しく、なかなか高野さんに本心を見せない。

ここまで、ソマリアを好きになってどうする?とは思うけれど、理性でわりきれないのが恋だから。


読了日:3月19日 著者:高野秀行




よくできた女(ひと) (文学シリーズ lettres)よくできた女(ひと) (文学シリーズ lettres)感想


excellent woman(よくできた女)とは、

昔のイギリスのハイミスに対する蔑称だったのだろう。

育ちもよく、教育があり、家事一般がキチンとこなせ、面倒見もよい。

しかも娘をかばううるさい親がいない。

だから使いやすい、都合のいい女という意味だ。

 主人公は決してめげない。今ここにある幸せに感謝できる人間だ。

決して分にすぎた夢はみないと自戒もしている。

彼女のささやかなフラットに、なぜかド派手な夫婦が越している。

いつの間にか夫婦喧嘩の仲裁役を担わされてしまう。

オースティンの流れを汲んだほろ苦い傑作。


読了日:3月16日 著者:バーバラ・ピム


徒然草REMIX (新潮文庫)徒然草REMIX (新潮文庫)感想


徒然草とそれに影響を及ぼした枕草子に思いをはせたエッセイ。

ふわっと優しい語り口ながらも、

人の底の底の探った本音を洞察しているところは実に鋭い。

「財産は残すものではない」

「べらべら思ったことを話す人間は見苦しい」と本気で考えているのなら、

なぜ兼好は自分の美意識を信奉して後世に残らぬように

徒然草を燃やし捨てなかったのか?

そこが最大の矛盾だなぁと読みながら思っていた。

が、酒井さんは徒然草自体が大いなる兼好の自慢オンパレードであって、

ナンダカンダいいながら認証欲求の激しい人だったのだろうと結論付けている。サスガ。


読了日:3月15日 著者:酒井順子


時平の桜、菅公の梅時平の桜、菅公の梅感想


歴史的人物はどこに視点を定めるかで、悪者になったり、いい人になったりする。

ふつうは菅原道真がいい人で時平が悪者になるのだが、

この小説はその反対。

時平はあんまりお勉強はできなかったけど、政の本質を知っていた人。

して道真のほうはすんごく俊才だったけど、KYの困った人。

公卿のみなさん、困りに困って、道真が二度と帰って来られぬよう大宰府に送り込む。

本当は中国ぐらいまで行って欲しかったんだけどね。

ま、いいか。そこでなら、いくら威張っていてもいいからね。


読了日:3月9日 著者:奥山景布子


涙せずにはいられないこのふたつの愛しい命 『ベルとセバスチャン』 [読書&映画]

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きのう、『ベルとセバスチャン』と見てきました。

このタイトルを言われてもわかんない人のほうが多いのでしょうが、

実はあの「名犬ジョリー」のことなんです。

わたくしねぇ、あのハウスの名作子ども劇場って、

絶対に絶対に泣いてしまうんですね~。

こんな分かりやすいわななのに、とは思うけど、

『小公女セーラ』なんか、もうオープニングの曲を聞いただけで泣いてしまう。

でも、涙って心の浄化作用があるみたいですよね。

現実に横たわっているもっと本当に複雑な問題に対して、

ただ泣いているだけでは生きていけないじゃないですか。

でも、人間ってたまには、こういうふうに泣いてみるのもアリかなと思うんですね。

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名犬ジョリーの原作は本当は読んだことがなく、

「アルプスの村の犬と少年」というのらしいですが、

この映画は、時代を第二次世界大戦中のフランスとスイスにまたがる

国境のふもとのフランス側の村のお話となっております。

フランスはすでにドイツに負け、ドイツ軍の侵攻をやむなく受け入れなければ

ならない状況でした。

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親がいないセバスチャン。

育ての親のおじいさんには「お母さんは、お前をわしに預けてアメリカに行った」

といってあるのです。

「アメリカってどこなの?」と問うセバスチャン。

「あの山を越えたところにあるんだ。そこがアメリカなんだよ」

セバスチャンはいつかお母さんに会えると信じています。

村にはひとつ、問題がありました。

昔、飼い犬だったけれど、飼い主が残酷なことをして

虐待したために、逃げ出した犬が野犬化して、村人を襲っていると。

今日も、猟に行った村の男のひとりが犬にかまれて怪我をして帰ってきました。

おじいさんもセバスチャンに「気をつけるんだぞ」と念入りに注意しますが。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

しかし、どういうんでしょうかねぇ。

まだ年端もいかない子どもと動物は心を通いあわすことができるんですねぇ。

親のいない少年と、野犬化した犬。

どちらもさびしいもの同士。

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すぐにこれ以上ない友達となります。

しかし、野犬化したとか言っても、

ワンワンはどう見ても、血統書つきのグレート・ピレニーズにしか見えません。

だって、姿カタチがきれいなんだもん。

それにすっごく賢そうなかおしてるしね。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

この貧しい村は実はドイツ軍のSSに目をつけられていまして、

なぜかというと、ナチに追われているユダヤ人の人たちを

こっそりと山向こうの中立国、スイスへと逃すための山越えの

道案内をしていたのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ところが、いつもユダヤ人たちの道案内をしている青年が怪我をしてしまいます。

でも、一刻も猶予はなりません。

ナチに感づかれる前に、今かくまっているユダヤ人の一家をスイスまで導かなくては。

代わりに青年の婚約者でもあり、セバスチャンの姉代わりに面倒をみてくれていた

アンジェリーナが道案内をすることになりました。

アンジェリーナはしっかりしているけど、途中で何かあったら。

セバスチャンは気が気ではありません。

ベル(犬の名前)と一緒についていきます。

ベルは人間には分からない独特の感覚で

道なき道を進んでいきます。

ここら辺の映像は本当に撮るのが難しかっただろうなぁ~と思わせますが、

本当にすばらしく、一見の価値があります。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

途中、ナチに気づかれ、必死になって山越えをするセバスチャンたち。

しかし、なんとか無事に国境を越すことができました。

しかし、アンジェリーナはナチに顔を見られてしまったので、

村に帰ることができません。

セバスチャンを抱きしめ

「ここでお別れよ。私はイギリスへ行って戦うわ。

だけど、またきっと帰ってくる。それまで元気でいるのよ」

と愛する婚約者へ手紙を託し、

セバスチャンを村へ返すのでした。

ユダヤ人一家のお父さんは娘と同じ年頃の少年を心配せずにはいられません。

「本当にあんな小さな子を一人で帰して大丈夫なのか?」

それを聞いてアンジェリーナは

「ひとりじゃないわ。だってベルがついているもの」

けなげな犬と少年の後姿を見て、もはや涙は決壊しそうでした…。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

本国フランスでも、いわゆる家族で楽しめる映画として人気があったようです。

セバスチャンに選ばれた男の子は

2400人の中から選ばれたそうで、

フランス人の男の子らしい、華奢で細面な顔ながら、

どこかきかん気が強く、利発そうな印象の子で、かわいらしかった。

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ずっと気になっていたのが、セバスチャンが着ていたセーターです。

ほんとに趣味がよろしくて、あああ~。、いいセーター着てんな~。

映画はさりげなく映しているけど、実にセンスがよろしい。

いろいろな意味で、羨望のため息をつかせたよい映画でした。

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手作り市に出品することにしました~~。 

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日時 11月5日(木)10時スタート

場所 阪急京都線 上牧駅 (普通、準急のみ停車)徒歩五分

イベント会場   建築雑貨ラロ

名称        こちくら市

詳しくは、↓を見てくださいね!!

http://www.relife.co.jp/24sekki/kochikura/

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平安版・トランスジェンダー物語  さいとうちほ「とりかえ・ばや」  その後 [読書&映画]

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わたくしのブログをお読みいただければ、

わたくし、結構西洋の純文学を読んでいるっていうのは

わかっていただけられていると思うけど、

でも、こういう話はほとんど「面白い」じゃなくて

「非常に興味深い」話であって、

そのいわんとするところを理解するために、

じっくりじっくりと精読しなきゃならないもんなんですよ。

つまり、純文学というのは、

ちびりちびりとその味を堪能するウィスキーかブランデーのような存在。

なにしろアルコール度数が高いからぐいっと飲めませんね。

しかし、かもし出す芳香のよさは絶品なのです。

一方、サスペンス小説や推理小説は、たいていぶ厚い本なのに、

先が知りたくて、一晩明かして読んでしまうということは多々あること。

だからといって、こういう類の作品が劣っているとは思わない。

いわば、方向性が違うってだけの話。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

わたくし、日常に疲れたとき、

読む作家って大概決まっているんですよ。

まあ、サスペンス小説、推理小説も好きなんだけど、

こと、歴史モノにかぎっていえば、

藤本ひとみ、佐藤賢、さいとうちほ、ですね。

この人たちの作品は一回読んで終わり、ということがない。

さいとうちほは、作家といってもマンガのほうですから、

下手をしたら、一年中寝る前に読んでいることもあります。

 以前、この「とりかえ・ばや」についてトピを挙げたら、

なぜか非常に反響があるので、

気をよくして、続きを書きたいと思います。

注意:ここからは「とりかえ・ばや」の⑤巻から⑦巻の感想です。

ネタバレを嫌う人は読むこと厳禁ですよ。

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さて、本題。

どこで終わったんだっけ?

あ~、そうそう。

端的にいっちゃえば、沙羅双樹は石蕗(つわぶき)に

女であることが知られてしまって、

歌会という衆人環視の中、彼のおかげで女であることが露見せずにはすんだんだけど、

石蕗はつい従来の色好みがむくむくともたげてきて、

膂力ではどうしてもかなわない沙羅を犯してしまうんです。

瀬戸内寂聴さんもおっしゃってますね~。

平安の時代の恋愛ってほとんどがみんな強姦だって。

真っ暗な中、男がしのんで女の寝所に入ってきて、

長い髪をぐっと引っ張られたら、抵抗しようがないって。

で、既成事実を作っておいて、女ががっくりと諦めたとき、

恋愛が成立するって。

なるほどなぁ~と思いました。

恋愛を成就するとき、女君はおつきの女房に守ってもらわないと

防ぎきれるもんじゃないんですよね。

しかし、こういう場合、男のほうはおつきの女房から

攻めて行って自分の陣営に引き込むんですよ。

(源氏物語とか真面目に読んでいるといくつもそういう場面に出くわす)

そして、最後だれも自分を守ってくれる人がいなくなった姫君は男に手篭めにされちゃうんですね。

あ~、悲しい。

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とりかえ・ばや(5)

とりかえ・ばや(5)

  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2014/09/10
  • メディア: Kindle版


とりかえ・ばや 6 (フラワーコミックスアルファ)

とりかえ・ばや 6 (フラワーコミックスアルファ)

  • 作者: さいとう ちほ
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2015/02/10
  • メディア: コミック


とりかえ・ばや 7 (フラワーコミックスアルファ)

とりかえ・ばや 7 (フラワーコミックスアルファ)

  • 作者: さいとう ちほ
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2015/07/10
  • メディア: コミック


沙羅はものすごくショックを受けました。

今まで体は女でも、心は男だと信じてきたのに、

石蕗のことにせよ、本当にいやならどんなことをしても

逃げ出せる隙もあったはずなのに、

なぜか自分は最後は男のいいなりになってしまった。

というか、石蕗のそういう男の部分をすんなりと受け入れてしまっていた。

そんな自分を恥じて死んでしまいたい、と思いつめる沙羅双樹。

しかしですね。

現代でも暴漢に襲われた女性ってみんなこんな風に沙羅双樹と同じこと思うらしいし、

相手も「おまえも結構喜んでいたじゃないかよ」って言われて、

さらに傷つくみたいです。

でも、担当の刑事さんやお医者さんはいうそうです。

「いいえ、人間の体というのは、そういう風に反応するものなんです。

そういう風に作られているんですよ。

だから、あなたが自分の意思の力で逆らえなかった、と思うのは間違いです。

それは、合意があって行われたものでなく、明らかに暴力です。」

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

で、男は好きだからやった、で

後腐れなくていいですね。

しかし、沙羅はそういうわけにはいかなかった。

ただの一度だけ、それも好きでもない男と関係をもたされたとしても

それで妊娠することってあるんですね~。

あんまり心根の深さと関係なく、してしまうのが妊娠。

おろおろしているうちに、だんだんと大きくなっていくお腹。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

どうしよう、死にたい、と思いつめているうちに

足は自然と吉野に向かっていく。

沙羅は精神的な父親のような存在、吉野の宮の前では

臆することなく、弱音を吐き、号泣してしまう。

「死んでしまいたい」

「いや、そうではなかろう。そなたは死にたいと思ったなら

わざわざここまでくることはなかった。

そなたは生きようと思ってここへきたのだ」

と慰める宮。

宮は意味深長なことをいいます。

「私も昔、政治闘争に敗れ、この地に逃れてきた。

私もそのとき、本当に絶望をして死んでしまいたいと思ったが、

しかし、古い自分は死んで、また新しい人生を送ると思えば、

つまり違う人生を二度生きるとすれば、それもまた味わい深い人生よ」

と慰めるのですね~。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

そして、双樹は秘密裏に宮廷を離れ、

子どもを生んで母になる決心をするのです。

つまり、今まで男であった自分に対して決別することを意味していました。

今まで男であった自分には、荘厳して別れを告げたい。

なんていうんですかね、男であった自分を愛していたんですよね、沙羅は。

そういう自分を特別労わってやりたい、惜別の情をしめしたい、と思ったんでしょう。

そして、そういうことは時を選ぶものなのです!

宮中で行われる桜の園遊会において、

私はこれを最後に宮中を去る。

どうせなら、うつくしく散華するのみ。

大きくて重たくなったお腹も、平安の男の装束はゆったりしてますので、隠れてしまって

正体を見破られることはありません。

沙羅は伴の一人ひとりにいたるまで装束を凝らし、

自分も美々しく装いを凝らし、この日を迎えます。

宴もますますたけなわになったころ、

公達らの漢詩が披露されます。

沙羅双樹がもらった題は「春」でした。

もともと才気煥発でつとに有名な沙羅でしたが、

この日のたそがれ時、桜吹雪が降りしきる中、沙羅双樹は

一世一代のすごい詩を詠みます。

時代はまだ平安の初期だったんでしょうかね~。

平安初期は漢詩を作っていたんですよ、まだ。

(後期になると、短歌のみになるらしいです。)

(ここでは和漢朗詠集から実際に詠まれた漢詩を沙羅に披露させています。

本当に美しい詩なので、ぜひ読んでみてね)

沙羅の父親である関白左大臣も沙羅の立派な男ぶりをみて

感動の涙を流すのを禁じえません。

帝も沙羅双樹を日ごろから才気があって気が利いていて、とお気に入りだったのですが、

改めて、そのすさまじいまでの才能に感じいるのでした。

そして、褒美として衣を下賜します。

そして、その衣をひらりと肩衣にかけ、御礼の拝舞をします。

それがまたまた見事な舞なのです。

周囲を圧倒させる才能。

思わず涙を流してしまう睡蓮。

東宮に何で泣いているのかと訊かれても

自分でもよくわからない。

ただ、沙羅双樹の緊迫した気持ちが伝わってくることだけは分かりました。

「そなたの兄はつくづく才気のかたまりじゃの」

ほとほと感じ入ったようにつぶやく東宮。

ついに帝は沙羅を右大将に昇進させます。

しかし、その後、沙羅双樹は突然出奔してしまいます。

あまりに突然なことで、騒然となる宮中。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

沙羅が宮中を去る前、ひとつのことが沙羅に内緒で計画されていました。

沙羅一人ではお産もままならないため、

沙羅双樹は乳母のあぐり夫婦には本当のことを打ち明けて

協力してくれるように頼むのです。

しかし、あぐりはあまりに心配で、こっそりとお腹の子どもの父親である

石蕗に姫をかくまってくれるように相談しました。

内心、あぐりは石蕗を憎んでいましたが、

なにしろ石蕗は、帝といとこの関係、で大貴族です。

男をやめてしまった沙羅には後ろ盾になる男君が必要なことはわかっていました。

やはり、あぐりは自分が守り育てた姫君には

幸せになってもらいたいのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

こうして、抵抗はしたものの、沙羅は結局宇治にある石蕗の別荘にかくまわれることになりました。

一緒に住んでみるとつくづくと分かりますが、

石蕗ってどうも、短慮なんですよねぇ。

色好みなのも悪いとは申しませんが、

どうも、タイミングが悪い。

石蕗は、沙羅がいつわって夫婦となっていた四の姫にも、ほぼ同時に

妊娠させておりまして、沙羅と四の姫の間をあっちに行ったりこっちに来たりしてるわけですよ。

で、ここぞ、というときに石蕗はいない。

そんなこんなで沙羅は情緒不安定になったのか、

産んだ男の子は死んで生まれてきました。

ああ、なんてかわいそうなわたしのやや、

沙羅は絶望します。

そんなとき、かつての自分にそっくりな公達が沙羅のもとを訪れるのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

それはなんと、自分を探しに来た、片割れのきょうだい、睡蓮なのでした。

睡蓮は、今まで女として生き、どうしても是非にと乞われて

宮中の女東宮の元で尚侍(ないしのかみ)として仕えることになったのですが、

お互いに思慮深くて、慎み深い性格である、

つまり、とても価値観が似ていることを瞬時にわかってしまうんですね。

そして、お互いのことが好きになるんです。

東宮は「こんな美しい人を今までみたことがない。

しかし、自分の美しさを誇示するわけでもなく、

万事控えめなこの人は、なんと好ましいんだろう」

と思うんです。

睡蓮は女東宮を、なりが小さくて外見は子ども子どもしているように見え、

実際、無邪気でかわいらしいところもある反面、

どんなこともにも不平をもらしたりせず、自分の心をを抑えて、

慎重にものを運ぼうとする聡明さに心打たれていたのです。

はじめ、東宮と睡蓮はお互いを敬愛していたのですが、

だんだんと愛情を感じるようになるのです。

睡蓮は実は自分が男だと知っていますから、

これはまさしく、紛れもなく「恋だ!」と納得できますが、

東宮のほうは、よくわからない不思議な感情に包まれるんですよ。

睡蓮は女なのに。

何か単に「好き」という感情だけでは済ませられないものがある。

しかし、睡蓮が帝のところへ入内する話が進行するにつれ、

東宮は寂しさとやりきれなさが募ってくる。

自分の大好きな女官が帝の女御になれば、

自分も誇らしいのに、なぜ嫉妬めいた感情がでてくるのかと。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

しかし、睡蓮は入内の話を断りました。男だから当然ですね。

本来なら、帝の思し召しであれば断ることはできません。

東宮は「本当のことを話せ」と睡蓮に迫ります。

睡蓮は涙ながらに、

「今まで東宮様をはじめ皆様を欺いていて本当に申し訳ありませんでした。

もう、かくしておくことが出来ません。実はわたくしは男なのです」

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

あ~、なんということ!

周囲に知られてはならない秘密でしたが、

しかし、東宮は却って自分の気持ちの不可解さが、理解できてすっきりしました。

自分はそれとは知らずとも男としての睡蓮の部分に惹かれていたのだと。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

睡蓮は家に帰って、自分が男として生きる人生を選びます。

そして、理由もわからず失踪した姉を探しに行くのです。

しかし、理由が分かってみると、なんとも姉の沙羅双樹がかわいそうで、

短慮な石蕗のやりようが赦せない。

睡蓮も、恋する男子なので、女を思いやる男の気持ちは分かるのです。

自分は東宮様の幸せを一心に祈り、自分の気持ちなど二の次で生きてきた。

睡蓮は、東宮様の幸せこそが自分の幸せであり、東宮様のかんばせを決して

曇らせることはするまい、と心がけて生きていたのです。

それなのにどうでしょう!石蕗のやりようは。

自分のことだけを考えている石蕗が赦せない。

今までそれなりに生きがいを感じながら男の世界で生きてきた沙羅双樹の人生を

めちゃくちゃに踏みにじっても、それをなんとも感じない鈍感な男。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

こうして、ふたりは石蕗には黙って失踪したかに見せかけ、

吉野の宮のもとへと旅立つのです。

吉野では、男と女を入れ替える修行をし、

それなりに何とかカタチがついたところで

二人は都に帰ります。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

しかし、取り替えてみて、本来の性に戻った二人ですが、

性格が真逆ですので、周囲の人は不思議だ、と思うのです。

太陽のように、アグレッシヴな沙羅双樹。

月の光のように、静かで落ち着いているのが睡蓮。

しかし、だからといって女としてたしなみがない、とか男として覇気がない、というわけでもないんですねぇ。

ふたりとも本来の性にもどって、また新たな魅力が増しているのです。

特筆したいのは、男となった睡蓮のかっこよさですかね。

もともと口数が少ない睡蓮は、沙羅双樹のようにハキハキしたところがない分、

たたずまいとか物腰に威厳と気品が増して見える。

寡黙な分、沙羅双樹が男であったときより、数段男ぶりが勝って見えるのですね。

内気だといっても、ここぞと言うときは、そのタイミングをはずさないのです。

男になって宮中に戻ってきたとき、またもや未練たらたらの女々しい石蕗にすがりつかれるのですが、

なんといつも大人しい睡蓮が石蕗を蹴っ飛ばして声を荒げて罵倒するのです。

「沙羅双樹から四の姫を盗んでおいて、何をいけしゃあしゃあと!」

普段、大人しい人が怒るのって、迫力ありますしね。

一方、いなくなって、切ない恋心を抱いていた東宮は男の姿になった睡蓮を

その声を聞いて一発でその正体を見破るのです。

このシーンは何度読んでも感動しちゃう~~。

後半は睡蓮の活躍ぶりがすごいです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

思うに、この話って、中性的な話ではなく、両性具有的というか、

ヘルマフロディトスっぽい話なのです。

人間はというか、普通人生はいわばワンウェイ・ティケット。

ひとつの道を選んだなら、選ばなかった道を知らないわけですから、

時に人は立ち止まり、

自分の選び取った裏側の道であればどうだっただろう?と後悔したりするものですよ。

しかし、この二人は、両道に通じている。

しかも、ふたりとも、男にも女にも、どちらのほうの機微にも通じているのです。

これほど強いことなんてないでしょう。

こんなふうな類まれな道を歩んできたきょうだいが、

これから天下を治めていく帝や東宮に

今まで培ってきた力で助けるのであろう、と思われます。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

いみじくも美輪明宏さんがおっしゃってますね。

「色気っていうのはね、エロのことじゃないのよ。

相手を気遣う優しさが、体を通してにじみ出るのが色気なの。」

本質が一緒でも、それが男というからだを通して現されれば、それは益荒男ぶり、頼もしさ、と映り、

女というイレモノで表現されると、女らしさ、優雅さ、手弱女ぶりと移るモンなんでしょうね。

あ~、はやく次が出ないかな。楽しみにしてます。


プルースト『失われた時を求めて』を全巻踏破! ②アルベルチーヌ その2 [シリーズで考える深い考察]

ふう~。

考えてみると、わたくしのブログってはちゃめちゃですね。

ただのじみ~な読書日記風なブログか、

と思えば、いきなりハンドメイド日記にはやがわり。

しかし、そのどちらも自分なんですよね。

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さて、今日はアルベルチーヌの続きですね。

そう、アルベルチーヌは主人公である猜疑心の強い主人公を残して、

奇妙な同棲生活に別れを告げるのです。

そこで、主人公はアルベルチーヌから別れいったことに、ほっと安堵をすると同時に、

とてつもない喪失感を覚えてしまう。

…って読んでいて、非常にイライラする箇所なんですよね。

この人は、いったい何を考えているのだろうかってね。

主人公は本当に自分本位な人です。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

要するに、2巻で突然「スワンの恋」って章がでてくるんですが、

これって、主人公が生まれる前の話で、

この小説はこの「スワンの恋」以外はすべて「私」の一人称で語られるのに、

この章だけ違うんですね。

この「スワンの恋」だけで、独立した一個の中篇小説ができるくらいです。

(実際、『スワンの恋』という映画もある)

実はこのスワンの恋は主人公とアルベルチーヌの恋愛の雛形になっているんですよね。

スワンと言う人は、ユダヤ系の株の仲買人の息子なのですが、

まあ、親がとってもリッチだったのと、彼自身が極めて眉目秀麗で、社交術にも長け、

かつ、芸術品の造詣にも深いディレッタントだったので、

社交界の寵児にまで上り詰めた人だったのです。

それなのに、どういうわけかすごく美しいけれど、

高級娼婦のオデット・ド・クレシーと結婚してしまうんです。

それこそ、社交界にとって彼の結婚は大スキャンダルでした。

そして、彼は社交界から追放されてしまうんです。

でも、スワンの恋の仕方っておかしいんですよ。

実は、スワンの女の好みってとっても庶民的だったんです。

こう、なんていうのかな、むっちりと肉感的な女、

作中の言葉を借りて言えば、「ばら色の肉体を持った女」が好きだったんですね。

つまり、オデットは美しいけれど、やせぎすで、

見てくれはよくて、アクセサリーとしてつれて歩くにはまことに結構な女だけれど、

こう男として女を感じたい部分には、

オデットはスワンに何の感慨も与えられなかったということなんでしょう。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ところで、スワンにあこがれていた主人公は、スワンの真似をしてみたかったんじゃないかな。

オデットはスワンのことが好きで好きで、どうしても結婚してほしい人だったので、

あの手、この手でスワンを攻めていくのですが、

しかし、アルベルチーヌはそんなオデットとは違っていたのですね。

アルベルチーヌのほうが悲観的で、

オデットのほうが、アグレッシブでファイトのある女だったのでしょうか。

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アルベルチーヌはとても美しくて、利発で、そしてとても優しい。

しかし、なぜかとらえどころのない謎めいた一面があったのです。

あと、なにかこう全ての面で投げやりとでもいうか、あきらめていた様子が伺えるのですね。

結局、主人公がアルベルチーヌと別れることができなかったのは、

その謎を解き明かしたかったからなんだろうと思う。

ときどき、アルベルチーヌの放心した表情から、キラリっと目から火花が散ることがある。

いったいそれはなぜなのか。

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しかし、アルベルチーヌは決心をして主人公のもとから去っていってしまう。

フランソワーズから渡された手紙は、本当にすばらしい手紙で、

無駄なことは一切書いてないし、相手に恥をかかせるようなことも、

ましてや責めるようなことも書かれていない。

ただ、別れるときがきたようだ、と自分の意思をはっきりと書くのです。

それでいて、優しさが漂う、なんともいえない切なさが溢れた別れの手紙です。

わたくし、思わず、三四回読み直しましたね。

生きているうちにこんな手紙を書ける大人の人間になっていたいものだなぁと心のそこから思いました。

それなのに、たかだか二十歳かそこらの人間がこんな手紙を書けるものかしら?

ん~、やはりそこは小説なんだと思います。

しばし、呆然としたあと、主人公はなんとかアルベルチーヌを取り戻そうと

親友のサン・ルーを自分のかわりにアルベルチーヌが身を寄せているおばの里である、

トゥールまで行って説得してもらったのですが、アルベルチーヌは首を縦には振りませんでした。

何回か、二人の間には手紙のやりとりがあり、

主人公が脅したりすかしたりしてアルベルチーヌをどうにか取り戻そうとやっきになっているのに、

返事の手紙は一見、優しさや思いやりには溢れているけれど、どこか彼女の本心を隠した

お行儀のよい手紙しか来ませんでした。そこにはアルベルチーヌのどんな感情も見えないのです。

しかし、ほどなくして主人公のもとに、電報とアルベルチーヌからの手紙が同時に来ました。

電報はアルベルチーヌのおばからで、アルベルチーヌが馬に乗っていた際、事故で落馬し、

そのとき、木に全身を強くぶつけて死んでしまったという知らせでした。

そして、手紙はアルベルチーヌが死ぬ直前に書いた手紙で

「もういちど、あなたのところへ戻っていいでしょうか?」

と、今までの優しいながらもどこか冷めた調子の手紙から、打って変わって

思わず本心が吐露された手紙だったのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

わたくし、これは深読みかもしれませんが、

この手紙を書いたとき、アルベルチーヌはそうとうに追い詰められて孤独だったのだと思います。

誰にも頼れず、誰にも愛されていない。

そんな心の弱さからつい本音を主人公に漏らしてしまった。

けれども、主人公は本当にアルベルチーヌを愛しているわけではないので、

一旦は戻れるかもしれないけれど、いずれまた、捨てられるに違いない、と思ったのではないかなと。

そう悟ったとき、彼女は手紙を書いたことを後悔したのでしょう。

せめて、別れたあとくらいは、彼に軽蔑されることのないよう、

手紙の中だけでも矜持を保っていたいと願っていたのに…。

つまりは、彼女は自分の心の弱さに絶望してしまうのです。

で、事故に見せかけて、彼女は自殺してしまったような気がするんですねぇ。

あるいは、自分では気がつかなくても、無意識にそういった事故に向かわせていったのではないかと。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

主人公が疑っていたように、アルベルチーヌは同性愛に走っていたのかもしれません。

よせばいいのに、彼女が死んでしまった後でも、

主人公は彼女の素行調査をして、どんなに彼女が彼のしらないところで

放縦な性生活を送っていたかを知らされるのです。

でも、それは現代の同性愛者の愛とはちょっと立場が違うようにわたくしには思えるんですね。

この頃、ブルジョア階級の娘でも、持参金がなければ結婚できない、と書きました。

貴族の娘であっても、たとえば兄弟がいたりして、財産を分割すると貧乏になってしまうのが

わかっている場合には、結構平気で娘を修道院へ送り込んだりする親なんかはめずらしくなかったのです。

修道女になるか、あるいは、どこかお金持ちの家で住み込みで家庭教師をするか、

あるいは、彼女が美人なら高級娼婦となって、金持ちのパトロンにすがって生きるか、

まあ、そのぐらいしか道がないのですね。

それでは思い切って、本当の庶民、例えば、魚屋とか肉屋などの男と結婚する、というのなら

また話は別ですが、(そこには本当にお互いをいたわりあうような愛がなければならなのは

必然ですが)、アルベルチーヌのように、教育も教養もある女性が字も読めない男を好きになったりする

可能性は非常に少ないような気がします。

ま、何事も世の中には例外というものは常にありますが。

(ロレンスの『息子と恋人』はブルジョアの娘が、

粗野な、だけど非常に美男である炭鉱夫と結婚して、

価値観の違いからどんなに不幸な結婚生活をしたかを縷々と書き綴られています)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

つまりですね、主人公のような自分本位の男に囲われるような生活というのは、

男の性の玩具にされるということなのだと思います。

そこには、優しさもなく、ただただ、男の下劣な興味本位の性的満足しかないんだろう、と思いますね。

そういうのは、かなり心に堪えることなのだと思います。ささくれてくるんですよ。

まあこの頃の男性って結婚しても、そういう人は別段めずらしくもないんでしょうが、

それでも『結婚』して一家の主婦になるということは、その人の尊厳を守ってくれるものだと

思います。なんたって自分の親兄弟もいますし、世間体もありますし、

冷えた夫婦仲でも、お互いに恋人を作って、そ知らぬふりをして

暮らしていたりしますしね。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

疲れててくるんですよ。、

そういう男の愛人になるのは。

もともと男女の抱擁というのは、お互いの気持ちを優しくさせるというものだと思うんですよね。

愛し合っている二人ならば。

心を許しあっている仲ならば、お互いの肌のぬくもりもきっと心地よいでしょう。

しかし、アルベルチーヌは気が休まるときがない。

眠っているときしか、彼女には心の自由がない。

だから、彼女はすぐに眼を閉じて、没我の眠りの世界へと入っていってしまうのでしょう。

彼女は現実から逃げ出したいんですよ。

このどうにもならない現実から。

誰にも守られることのない自分。

それどころか、頼りにしたい恋人からは、いつも、猜疑心に満ちた目でじろじろ観察され、

尋問口調であれこれ言われたりする。

ほとほと愛想が尽きちゃったんでしょう。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

牧歌的な少年時代をつづった一巻には、突然、散歩道のモンジューヴァンで

音楽家であるヴァントイユの娘が女友達と抱き合っているのを

まだ幼い主人公が目撃してしまう、というびっくりな一節があるのですが、

アルベルチーヌはそのヴァントイユの娘の友達と親しかったのです。

たぶん、このふたりは、持参金がないもの同士だったんですね。

その当時は、別に結婚できないがために、その代償として同性愛に走る人は

結構いたわけですよ。

そういう人たちって、どこか寄る辺がなくてさびしいんですね。

だから、さびしいもの同志、寄り添って生活しているんです。

女同士であっても、肌を摺り寄せれば気分的に和むときもあっただろうと思うのです。

なにしろ、人間ですものね。

男の代償としての同姓愛だったような気がしてならないのですね。

アルベルチーヌが主人公に隠れて、主人公の知らない女と抱き合っていたのは、

主人公から執拗に責められて、心の均衡を取り戻したかったからじゃないのかしら?

子供が不安になって母親の懐に飛び込むように。

ながくなりますので、つづきはまた。


プルースト『失われた時を求めて』を全巻踏破! ②アルベルチーヌ その1 [シリーズで考える深い考察]

プルーストをお読みになった方なら、なぜ①概論のつぎに

いきなり②アルベルチーヌになるんだ!とお怒りになるかもしれません。

そうなんですねぇ~。順番どおりにいくと、作者の幼年時代・コンブレーから始めるのが

妥当なのかもしれませんが、

まあ、どうせわたくしのブログは、学術的には何の根拠もない、

自分が感じたままの感想というか要するにたわごとしか書いてないので、

気分的にアルベルチーヌなわけです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

アルベルチーヌは、一読しただけでは、よくわからない謎のオンナです。

ざらっとあらすじをいいますと、

20世紀初頭のフランス。

ブルジョアのいいところの坊ちゃんである主人公は

生来、脆弱なうまれだったんですが、

あるとき、生涯の宿阿ともいえる、喘息になってしまったんです。

パリは空気が悪いんで、すこしリゾート地で療養しましょう、ってことになるんですね。

主人公はこのとき、いくつぐらいなのかな、たぶん十代後半かもしれない。

わたくしたち、日本人はフランスの海岸でリゾート地というと、

すぐに、地中海のほう、プロヴァンスとか、カンヌとか、そういう太陽燦々と輝くところを

想像してしまうんだけど、

意外と当時はノルマンディーの海岸が高級リゾートだったんですね。

で、バルベックという海岸へいくんです。

バルベックは作者が作った架空の町ですが、

モデルはカブールというところです。

カブールと言ってもわからない人もいますから、

そう、のだめちゃんが千秋先輩と行ったサン・マロとか

観光地でめっちゃくちゃ有名なモンサンミッシェルのほう、といえば

わかるかしらね。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

そうです。

そこで、主人公はおばあさんと一緒にやってくるんですが、

何しろ知ってる人がいない。

なにかこう所在ない思いをするんですね。

しかし、時間がたつにつれ、いろいろと知人、友人になる人も多いんですが、

そんな中にアルベルチーヌも入っていたのでした。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

アルベルチーヌを見たのは、最初は五六人の少女の固まりとして

見かけたんです。

みな、それぞれにいいところのお嬢さんっぽい子達ばっかりで、

しかも、それぞれに美しい。

その中でも、ぬきんでて主人公の目に付いたのがアルベルチーヌだったというわけ。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

出会いは、こんな風にリゾート地での気安さといいましょうか、

どうせ一過性のもの、と言う具合に、多少の危険はあるけれど、それが逆にスリルがある。

アルベルチーヌは主人公に思わせぶりに

「明日はわたし、パリに帰るの。

よかったら、夜、わたしの部屋でふたりですごしてもいいのよ」とさそう。

主人公はたとえ喘息もちでも、据え膳食わぬは男の恥、とでもいわんばかりに

少女の部屋に勇んでゆくのですが、

なぜかコトに及ぼうとすると

アルベルチーヌに「何するの! 気安く触らないでよ、わたしに近寄らないで!」

と拒絶。

おとなしく、オハナシだけをするために読んだのかよ~。紛らわしいヤツ、

けったくそわり~、カマトトぶりやがってよ。

で主人公はげんなりして、それっきりアルベルチーヌのことは忘れてしまうのです

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

時は過ぎ、主人公も悪所通いも板についてきた頃、

ある日突然、アルベルチーヌは何の前触れもなく、主人公の家にやって来る。

そして、以前はあんなに抵抗したのに、

今度はやすやすと、主人公に抱かれてしまうのでした。

主人公は、そのときはアルベルチーヌの女性としての肉体にだけ

興味があったので、モノにしてしまって飽きてしまったら、いずれは捨てようと思っていたのでした。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

20世紀初頭のフランスのブルジョアの階級の女の子ってみんなこんな風に発展家さんばっかりなの?

とちょっと読んでいてびっくりしませんか?

わたくしはびっくりしました。

貴族階級なら、わりと退廃的な風はあるから、

表面はしとやかで貞淑な風を装っていれば、

つまり、世間に知れることがなければ、かなり大胆なことはやってしまうかもしれませんが、

ブルジョア階級というのは、主人公の母親や祖母をみている限りでは

そうとうモラルが厳しい感じがします。

主人公の母親なんかは自分の姪がふだん、ナチュラルメークでいかにも

化粧をしてないように巧妙にお化粧してたのに、

ある日、どういうわけか化粧しているのがばれてしまったんですよ。

「まあ、化粧なんかしている人なんかとおつきあいできませんわ!」で

絶交しちゃうんですよ。

だから、アルベルチーヌのやっていることは、ブルジョアの世界では絶対に

大目に見られるようなことではなかったはず。

しかし、それなのにアルベルチーヌは、主人公と同棲生活をしちゃうんですよね。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

これ、どういうことかとわたくしなりに考えてみたんですが、

アルベルチーヌはブルジョア階級に属しているとはいえ、

実の両親は死んでしまって、しかも両親は財産を残してくれなかった娘なんです。

それで、高級官僚のおばさんのところへ引き取られて育てられていた、というわけです。

おばさんは、一応アルベルチーヌは姪ですので、女学校ぐらいは行かせて教育は

つけてやってはいますが、基本的に彼女は、お情けでおばさんの家においてもらっている身、

肩身がせまいのです。

しかも、当時は結婚に際しては、持参金というものがなければ成立しませんでした。

アルベルチーヌは自身の財産がないわけですから、

仲良くしている友人の母親から

「かわいそうに、アルベルチーヌはいくらきれいでも、これでは絶対にお嫁にいけないわね」

と陰口をたたかれる存在だったんです。

ある意味、美しくて教養があるアルベルチーヌみたいな、こんな子は

高級娼婦予備軍なのかもしれないです。

というか、主人公はすでにアルベルチーヌをそういった高級娼婦と同じ類の女と

すでにジャンル分けしているような気がしますね。

だから、美しい彼女をまるで着せ替え人形のように、次々とフォルトニーみたいな

高級ブランドのお店から特注させた衣装や靴をいくつもいくつも与えるんです。

アルベルチーヌは、自分には絶対に与えられることはなかっただろうと

渇望していたこれらの高級品には、非常に目利きなんです。

これはプルーストの解説本を書いている海野弘さんがおっしゃっていたことだけれど、

「アルベルチーヌはある意味、同時代に生きたシャネルを彷彿とさせるところがある。

貴婦人は潤沢にお金があるので、ほしいものはすぐに手が入るため、それほど

モノに対して執着がないが、彼女らはそれらを望んでも与えられないため、

却ってそれらのことを貴婦人以上に知悉しており、見る目がある」と。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ですから、主人公も気安くアルベルチーヌを妾のように囲ってしまうんです。

決して、将来結婚しよう、とかそんなことを考えていない。

主人公は、アルベルチーヌの美しさ、聡明さ、物事に対するセンスのよさ、などを

気に入っていたのですね。

だけど、それも一過性のもの。

いつかは、飽きれば彼女を捨てよう。そればかり、考えていたのでした。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

主人公は複雑な性格の人でして、

この人は作家を目指しているんですね。

そして、すごく多情なんです。自分が誠実な夫になれないのを自覚していおり、

かつまた、誠実な夫という枠に縛られるのがイヤなんです。

わたくしが思うに、彼は心の奥深くでは彼女に「愛」を感じているのだけれど、

それを自分では「執着」だと理解するのです。

そして、毎日二人でいることに耐えられなくなる。

彼女には飽きた。非日常性をなくした関係など倦怠以外の何ものでもない、

早く彼女を捨ててしまおう。

毎日そればかりを考えるようになる。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

しかし、主人公にはアルベルチーヌをどうしても手放せない理由があったのです。

それは、彼女はどうも主人公には隠している「秘密」があると。

それは、たぶん、彼女が同性愛者なのではないか、という疑問です。

主人公にとっては、解き明かされない謎ほどひきつけられるものはないのです。

彼女がどんな所業をしているのか、暴いてみせるまでは絶対に離さない、と思うのですね。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

そこから、ふたりの心理戦が始まる。

普段、主人公は日中、執筆の仕事をしているので、

アルベルチーヌにふらふらしていてもらっても困るので

彼女の友人のアンドレ(女の子にもつける名前のようです)にきてもらって、

日中は彼女とどこか、公園にいったり、ドライブしたりして過ごさせている。

帰ってくると、一日どうやって過ごしたのかイチイチ報告させるのですね。 

そして、ちょっとした話の食い違いがあるとそれを執拗に尋ねて、

本当にあったことを白状させようとする。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ある日、ルバッタというお店のアイスクリームが食べたい、とアルベルチーヌがいうと、

主人公は「ルバッタ」とわざわざ店を指名するのは、そこはかつて彼女とその同性愛者の

恋人と一緒に食べた店に違いない、と腹の中で考えていたりするのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

もう、一時が万事、そんなふうで、

ある日、執拗に尋問していた主人公に耐えかねて

アルベルチーヌは激怒します。

そうすると、主人公はネチネチと「じゃあ、分かれよう。ボクたちはその日が来たんだ。

分かれたら、絶対にお互いに顔を二度と見ることがないように、ああして、こうして」

みたいに、心にもないことを言ってアルベルチーヌを苛め抜きます。

とうとう、アルベルチーヌは自分が悪かったと誤り、その晩は和解したように見えたのですが…

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

しかし、その事件があってしばらくした朝、

主人公は決して、アルベルチーヌは自分から別れるとはいわないだろう、

そうすれば今こそ、自分から別れを告げよう、と思うのです。

そして、おきぬけのお茶を部屋まで運んできた女中のフランソワーズに

アルベルチーヌを自分の部屋にくるように呼んできてもらおうと思ったそのとき

ふしだら女とアルベルチーヌを嫌いぬいていたフランスワーズにこう言い渡されるのです。

「アルベルチーヌさんは、これを坊ちゃんに、と私に手紙を預けて、

ここをお立ちになりました」

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

あまりに長いですね。つづきます。


プルースト『失われた時を求めて』を全巻踏破! ①概論 [シリーズで考える深い考察]

とうとう全巻読了しました!

20世紀フランス文学の金字塔とも称される

マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』

はぁ~、一言でいいますと、「長かった!」です。

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思えば、プルーストのぷの字も知らない20歳もそこそこの頃、

映画館で『スワンの恋』って言うのを見たんです。

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この映画が実に良かった。

小さい頃から、着せ替え人形で遊ぶのがすき、

お姫様が好き、ドレスが好き、で育った人間ですので、

本場の絹の緞子かなんかで細かな仕立てがしてある、

クリノリンドレスやバッスルスタイルのディドレスやソワレ(夜会服)など

豪華絢爛の世界を目の当たりにすると、くらくらと目がくらんでしまったんです。

そして…主人公シャルル・スワンを演じた若いジェレミー・アイアンズ。

今は渋いオジサンになっていますが、本当にかっこよかった。

この映画が引き金になって、

非常に難解といわれるプルーストをいつか読もう、と若い私は心に決めたのでした。

それから、いったい何十年かかったのでしょう?

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

しかし、この小説はいわゆるフランス文学、ひいては美術、音楽の集大成でもあるので、

な~んにも知識がないと本当に面白くないだろうことは予感していました。

まぁ、音楽や絵画はわたくしの得意な領域なので、そこはよいとしても、

フランス文学はまったくといっていいほど、手をつけていませんでした。

でも、いきなりフランス文学はないだろう、と思い直し、

まずはやはりちょっとスノッブな三島由紀夫から。

スノブといっても三島の文学は本物ですので、かなり彼の美意識というものを

理解した上で、バルザック、フローベール、モーパッサン、ゾラ、メリメ、コレット、ジイド、などなど

読めるだけ、読みました。予備知識として。

さすがに、あんまり古いものはお手上げなので読みはしませんでしたけど。

(本当は読めるのだったら、読んだほうが良かった)

プルーストを読んでいて失敗したな、と思ったのがわたくし、まったくユゴーは読んでませんで

劇中の登場人物にユゴーの批判をながながとさせている箇所があって、

そこはまったく理解できませんでしたので、ちょっと残念です。

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とまれ、本題。

あらすじをいいますと、

っていうか、これってあらすじがあるようでないような感じなんですけどね、

19世紀も終わりごろ、作者の分身のような主人公の幼年時代から物語が始まるのです。

主人公の本宅はパリにあるらしいのですが、父親の休暇となるとその実家となる

コンブレーですごすことになるのです。

コンブレーはなんってことのない田舎なのですが、

主人公の家を起点として二つの散歩道がありました。

ひとつは「スワン家のほう」、メゼグリーズを通って、スワンの家のあるタンソンヴィルへの道。

もう一方は、「ゲルマントのほう」

こちらは、パリの中でも大貴族の中の大貴族であるゲルマント家の本拠地というか、領地があるところでしてた。

ゲルマントのほうは、スワンの家のほうへいくよりちょっと道のりが遠く、

スワンの家に行くようにちょいちょい行けないのが難点です。

ですが、川伝いにいく散歩道はサンザシの花が咲き誇るスワンの家とはまた違った趣がありました。

そして、町の中心にあるちっぽけな教会にはゲルマント家の先祖である、ジュヌビエーヴ・ド・ブラバンが

ステンドガラスにはめ込まれていました。

感受性が強く、想像癖の強い少年の主人公は、このステンドグラスを見て、

ゲルマント家、そして、現存する当代のゲルマント公爵夫人にあこがれるのです。

この箇所はちょっと日本人には難しいところなんですが、

たとえば日本でいえば、平安の絶世の美人といえば「かぐや姫」などを思い出すでしょう?

かぐや姫は、結局帝の求愛を退けて月に戻ってしまったけど、

実は別の異聞というのがあって、それは表向きの話であって、がぐや姫はこっそりと帝と結ばれて

その子孫である貴族の末裔が現存する「○○家」である、っていわれるのを聞くのと同じ感覚かな、と思います。

そのとき、日本でいえば、江戸から明治に入る頃ですが、

そういわれたとしたら、なんか「あこがれ」みたないなものが胸に生じたりする気持ち、わかりますよね。

まあ、そういったことことが主人公に起こるのです。

とにかく、長いのではしょっていいますと、

主人公はこの「あこがれ」という一種の好奇心が芽生え、

その好奇心の命ずるままに、貴族のサロンに行きたい、と思えば、

なんとかして、そのコネを使って、とうとう当代一流のサロンへも出入りし、

当時の高級リゾートだったノルマンディの海岸へ行ったり、

なかなか華やかな青春時代をすごすのですが、

やがて、自身の宿阿ともいえる喘息が何度も発症し、

だいたい第一次世界大戦とともにサナトリウムで療養することを余技なくされるわけです。

若いときから、芸術にあこがれ、将来は作家になる、と決めていた主人公ですが、

年齢は重ねていたとはいえ、まともな作品はなにひとつ残せないでいました。

そうした、自分からは無為にすごしてしまった時代を取り返すべく、自分の物語を書こう、

と決心したところで話は終わるのです。

(この話は循環しているので、冒頭に戻るのですね)

簡単にいってしまえば、別にドラマティックな大恋愛とか大悲恋とか、

そういうものが起こるわけではありません。

しかし、どことなく『源氏物語』を想起させるところもある、そんな物語です。

この話はもともと当時バルザックやユゴーと匹敵するような作家「サント・ブーヴに対抗する」批判文を

書くはずだったのが、いつのまにか小説になってしまっていた、ということです。

今日でも、バルザックやユゴーなどは名も知られていて、小説も読まれていますし、

作品が映画になったり、ミュージカルになったりしてますが、サント・ブーヴなんて名前は、

この作品を読むまで知りませんでした。

そして、サント・ブーヴの主張のどこにプルーストは反感を覚えたのかまでは

今のわたくしには論じる資格はありません。

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そのほか、スノッブと貴族の問題、

貴族とブルジョアの問題、

ユダヤ人と貴族の問題、

同性愛の問題、

などなど、いろいろと問題提起がその物語の中にされているのですが、

なにせ集英社の文庫で13巻のなが~~~い小説なので、

一口にどうこう、といえる小説ではありません。

ので、せっかく読破したことでもあるし、

これから、何回かにわたって自分なりの思いをつづっていきたいと思います。

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プルーストはカトリックの医師である父親とユダヤ人の母親との間に生まれた、

ユダヤの血を引いた人間です。そして、彼は完全な同性愛者でした。

しかし、小説の主人公は、両親ともカトリックの家庭に育ったことになっていますし、

そうとう好色な人間ですが、同性愛者ではありません。

つまり、これはプルーストの自伝に見せかけた全くの創作です。

しかし、主人公の周りの人間がユダヤ人であったり、

同性愛者であったりする設定は、

主人公も自身の分身であるなら、

登場人物も自身の分身であるわけですね。

そうやって、単なる自伝ではなく、

本当の心の真実を、この小説を通して描いているのだ、と思います。


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