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クラーナハ! [ちょっとした考察]

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この間、ちらりと日曜の朝、NHKの『日曜美術館』を見ていたのだが、この回はクラーナハだった。

う~ん、いつから「クラーナハ」と表記しだすようになったのだろう?

わたしが教えられたのは「ルーカス・クラナッハ」だったのに…。

今は「ルカス・クラ-ナハ」なんだそうだ。

ま、ドイツは全く解りませんので、「そうなんですよ」と言われたら「そうなんですか」って返すしかないんですけどね。

それでクラーナハといえば…わたしは『エロイカより愛をこめて』のエーベルバッハ少佐をすぐに連想してしまう。

この少佐渾名を「鉄のクラウス」とおっしゃいまして、軍人ですが、なんていうのかな、芸術音痴な方なのです。

で、美術品マニアの怪盗であるエロイカことグローリア伯爵は目利きなので

すぐに「これは〇〇時代の〇〇だ!」ってウンチクを垂れ流して喜ぶのですが、

少佐はうんざり。

ルーベンスあたりの絵になると「三段腹のおばはんが白目をむいている絵だ。不健康な絵だな。ダイエットをしたほうがいい」というのに対して、必ずこのクラーナハの絵が出て来るんですね。

少佐いわく「発育不全の小娘の絵なんか見てなにが楽しい…」なんですよ~。

でもそれはとりあえず、プロポーションからみるとその評は本当で、

上半身はいやに貧弱です。

で、わたし、なんか昔からこのクラーナハの絵は好きじゃないんです。

で、話は元に戻りますが、

日曜美術館の司会はNHKの女性アナウンサーの方と俳優でクリエイターの井浦新がやっておられますが、

途中でドイツ文学者で最近は「怖い絵」シリーズで有名な中野京子さんが出られたのです。

で、その前にもエライ画家の先生なんかがコメントしておられて、

「少しフェティッシュなものも感じられますねぇ~」と本音をオブラートに包むように仰っておられたのに対し、

京子先生は「変態ですよね!」と一刀両断!

たじろぐアナウンサーさんと井浦さん。

「え? ええ、 ヘンタイ、ヘンタイチックですよねぇ~。なんというかこのぉ~」

と必死になって中野さんをフォローしようとしていて、慌てふためているリアクションがなかなか面白かった…。

最近のNHKはスポンサーがいないせいかなかなか強気です。


メアリー・カサット展へ行ってきました! [芸術]

久々に美術展へ行ってまいりました。

このメアリー・カサット展は京都近代美術館で開催されていたんですが、

反対側の京都市美術館にふと目をやると、

長蛇の列が!

むむむ?思ったら『伊藤若冲展』でした。

わたしねぇ、とにかく並ぶのがキライなんですよね。

伊東若冲そんなに魅力的かな~。ま、いいけど。

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裏のほうでサージェントのお話を掲載させてもらっていますが、

そのころ、ほとんどこういった類の画集は皆無でした。

だから資料は全部洋書で買って、読んでました。

本当は、同時期のホイッスラーとこのメアリー・カサットの三人をセットにして

『パリのアメリカ人画家』でお話を書いたら面白かろうに、とはひらめきはしたんですが、

もう英語を読むのがどうにも苦痛というか、また洋書だから高いんですよね~。

それにしても、あの頃、ホイッスラーもサージェントももちろんこのカサットにしろ、

画集もなにもなかったことを思えば、ああ、時代が変わったのかなぁとも思います。

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さて、ですね。

カサットって一見、子供とおかあさんを描いていて

そこに別に難しさがないので、とてもとっつきやすい画家さんなのかな、と思うんですが

今にしてみると、めちゃくちゃドライポイントがうまい。

つまり、描線がきれいなんですよね~。

女の人は、色には強いけれど、形には弱い、ってのは昔からの通説でございまして

それは確かにその通りなんだろうとおもうけど、

この方は、その昔のアルテミシア・ジェンテレスキなみに上手いです、デッサン。

そして、デッサンが上手いばかりでなく、色彩もメリハリがあって

非常絵自体に迫力がありますですね。

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言われていることわからない、というムキもあるかとおもいますが、

例えば、同時代のフランスの女流画家のベルト・モリゾなんかと比べてみると

morizo.jpg(ベルト・モリゾの絵です)

その卓越した力強さがわかってもらえるように思います。

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このくらい上手ければ、男の人にもひけはとらないと思いますが、

彼女はエコールデボザールの入学を断られるんですよね、女だからという理由だけで。

本当にしんどい時代だと思います。

それでも、めげずに素晴らしい絵を次々と描いた彼女は

やっぱり優れた先達と言えるでしょうね。

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惣領冬実の「マリー・アントワネット」(裏ブログとは違うよ) [読書&映画]

9月23日に発売だった

惣領冬実の「マリー・アントワネット」

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アマゾンで買おうとしたら、どういうわけか予約なのか送料の350円かかるっていうんで

ふつうのお店でダーリンに買ってもらいました(極端な出不精なんだな~)

やっぱり前々から、私が言っていたとおり、

王さまはすごいイケメンに描かれていた!

まるで「MARS」のレイちゃんのようでした…。

そこまでかっこよくせんでよいいのにというくらい、ハンサムでございました。

冒頭の大人になった王妃さまのお顔っていうのが

なんとなく、今フランス映画で引っ張りだこのカトリーヌ・フロに似ているような気がして~。

ヴェルサイユ宮殿監修っていうのがすごいです。

絵がやっぱり現地で取材してきたのは違う!って感じで

本当に詳細に描かれていた。

しかし、プチ・トリアノンの館の内部の詳細っていうのは、

いわゆるこのころのフランス貴族の一典型ではないかと思うのですね。

それは、「ベルサイユのばら」の外伝に載っていたジャルジェ家の構造とも

基本的には全く同じだし、

この間見た、ベルギーかオランダ貴族のお話の映画

「素敵なサプライズ」に出てきたお屋敷の内観ともそっくりでした。

白黒でできた格子柄の床。それも斜めに走らせるのがヨーロッパですね。

そして、瀟洒な透かし模様の入った片翼だけの階段。

う~ん、いいですね。

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マリー・アントワネットはなんていうのかな、

死んで名を挙げた人ですよね。

生きているうちは、罵詈雑言の嵐でしたが。

ルイ16世は、長らくツヴァイクの伝記が世の中に浸透していたせいで

デブでチビで愚鈍な王様と誤解されていましたが、

全くの逆で、ものすごく名君だったんですよ、

世の中を改革しなければならない、と思っていたから

結果的に革命が成功できたんであって、

暴君だったら、1789年の7月14日に

民衆を徹底的に痛めつけることもできたんですね~。

ナポレオンは案外非道でして、大砲に「ぶどう弾(散弾のこと)」を入れて

虐殺することもいといませんでしたが、

ルイ16世さまは、やはり最後まで使わなかったとか。

(知らないから使わなかったわけじゃないよ)

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マリー・アントワネットとフェルセンの恋ってものすごく有名ですが、

これも結局、学者たちの間では意見の分かれるところで

フェルセンは単なる王妃様の取り巻きのリーダーに過ぎないという意見や

王さまがあまりに頭が切れるので、息抜きにバカっぽいフェルセンとの会話を

楽しんだんじゃないかっていう説もあり、

中野京子さんなどは「ロココの時代というものを考えてみると、肉体関係がなかった、ってことが

不自然」ともおっしゃっていて、決定打には欠けるところです。

ただ、わたくしが思うに、

案外、この夫婦はあっさりしていて、ドロドロの不倫を楽しむタイプではなく、

ちいさな家庭の幸せを大事にしていた、とも思えたりするんですよね。

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しかし、本は「え? これで終わりなの?」って感じで

面白いのに、すぐおわちゃった、続きはないの?って感じ。

だけど、「チェーザレ」も11巻でずっと止まっているし、

早く先が読みたいんですよ~。

わたくしが死ぬまでには全部読みたいです。

惣領センセ、頑張って。


自分的激萌え映画   『デュエリスト 決闘者』 [読書&映画]

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最近、ちょっと暑かったせいか、(京都の夏は半端なく暑い!)

精神的にも肉体的にも、しょぼ~~んとして辛くて、

大好きな映画も見られずじまいでしたが、

ここんとこ、少し回復して、フールーで楽しんでおります。

そして!!

 なぁんとタイムリーなことに、

自分的激萌え映画を見てしまいました!

タイトルは『デュエリスト(決闘者)』

どこに萌えるかというと、それは、それは!!

時代がナポレオン時代の騎兵隊の話なのです!!

わ~い! 

あの時代の軍服大好きな人間にしたら、よだれが垂れるほど

素敵な映画でした!

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騎兵隊の将校さんは、乙女のあこがれ。
いつでもどこでも、モッテモテです。

みんなユサール騎兵の恰好をして、肋骨飾りの服の上にプリスを着て、

サーブル・タッシュをつけていて、華やかです~。激萌えです~。

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今まで、図でしか見たことなかった騎兵隊ですが、

動いているのをみて、なるほど、なるほどと感心してみていました。

それはともかく、

しかも!

監督がかの有名なリドリー・スコットというところが

ビックリです!

あの、「エイリアン」の監督ですよ。

このデュアリストっていいうのは、エイリアンをつくるひとつ前の

映画ということです。

う~ん、スコット監督になにがあったんだ?っていうくらい

作品の質が違う~~。

あ、でもこれがスコット監督のデビュー作らしいですね。

まぁ、監督って扱う素材が違えば、また逆に素材に見合うスタイリッシュな画像を

作りたくなるものだから、それはそれで納得です。

初めは1800年から始まるのですねぇ。

このころの軍隊はまだ、旧体制風ファッションが主流みたいで、

びっくりしたのですが、騎兵隊の将校のヘアスタイルです。

まぁ、なんとなく、ロン毛を後ろでおリボンで結んで、

サイドの髪はローリングして~、っていうのはなじみのあるヘアスタイルですが、

騎兵隊の人間は、サイドの髪を三つ編みしていた!っていうのが

 なんか新鮮でした!

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でも、ナポレオンが皇帝になるあたり、1810年ぐらいになると、

流行が変わったというか、世の中の意識も変わっていくらしく、

髪の毛はロングにしなくなるんですね~。

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主人公のデュベールも途中で髪の毛を切っています。(でも、ローマ風に刈り込んでいなくてちょっと長い)

話は…。

1800年の第7騎兵隊の時代。

ストラスブールに駐屯していた第7騎兵隊に、

フェロー中尉という、きわめて決闘好きの男がいました。

本当は、軍人は決闘をしちゃだめっていう規則があったのに、

なんとフェローはそこの有力者の息子と決闘して重傷を負わせてしまう。

部下の不始末を聞きつけて激怒した将軍は

主人公のデュベール中尉にフェローを謹慎処分にするということを伝えて来い!と

命令します。

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将軍ファッションも渋い!!!

しかし、単なる伝令役のデュベールに対し、フェローは「謹慎処分」にされたのは

お前のせい、といって逆恨みします。

バカとは会話ができないという典型です。

すぐにまた、「お前と決闘する!」とフェローは激高します。

ここで、受けて立つと自分だって軍紀を犯したことになり、

自分の立場が危うくなることを知っているデュベールは

決闘することを固辞するのですが、アホなフェローはどうしても返してくれません。

諦めて決闘するのですが、

賢いデュベールにフェローはどうしたって負けちゃうんですよ。

初めは剣で、

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次は馬上で、

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最後は銃でって

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何回やれば気が済むの?

それに、デュベールはフェローに対抗心ももってないしね。

しかし、いつまでたっても、フェローは和解することをかたくなに拒み、

なにかあるごとに決闘を再開させようとする。

さて、時代は過ぎ去り、キレモノのデュベールはそれなりに

ナポレオンのロシア遠征にも辛くも生き残り、あまつさえ王政復古の世の中になっても、

世の中をうまく泳ぎ渡り、めでたく旅団長(日本風に言えば、少将)にのぼりつめました。

長らく戦い一辺倒で生きていたデュベールですが、姉さんが持ってきた縁談を受け、

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キース・キャラディーンの手足が長くて優雅なこと!
もう、美しすぎて震えます!笑

幸せな家庭生活を送ります。

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 ウェディング・ケーキをカットインするときは
自分のサーベルでカットよ。
やっぱり、手も美しくてセクシーな
キース・キャラディーン!
紺サージの上に金糸の刺繍が見事な将軍ファッションも素敵!!!!
あ~、こういう素敵な将校さんとなら
あたしも結婚したいかも!
(旧日本陸軍はいやです)

さてもうすぐ妻が月満ちて初産をしようというまさにそのとき、

しつこいフェローはまた、挑戦してくるのです。

しかし、デュベールは今や父親になろうとしているのです。

それに妻もいる、そして一人娘の妻の舅もいます。

いまやデュベールには一家の長としての責任があります。

ここはどうでもフェローに勝たなければならない。

デュベールは誰にも告げず、フェローとの一騎打ちへと向かうのでした!

・・・・とまぁ、ありがちな話ですが、

それなりに面白かったです。

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このデュベールをやった俳優さん、まったく知らない人で

キース・キャラディーンという人なのですが、

わたくしのストライクゾーンど真ん中という、すっごいハンサムな人です。

なんていうのかなぁ、いかにもイギリス男って感じ

(とかいいつつ実はアメリカ人 要するにアングロサクソン色の強い人)で、

レイフ・ファインズとかジェレミー・アイアンズみたいな

ものすごく手や脚が長くて、肩幅もあって、首なんかも長くて、

って感じのハンサムさんです。

どういうのかなぁ、前も『シェリ』のルパート・フレンド見て思ったけれど、

こういう人って絶対にイギリス人なんであって、フランス人には見えないんですよね。

イギリスとフランスって近い、と思うけど、

イギリス人って実は北欧に近くて、フランス人って南のローマ寄りの人種なんだなぁと

思ったりします…。

フランスを描いた、イギリス映画なのでありました。


親を選べなかった青年の不仕合せ  『未成年』 ドストエフスキー [読書&映画]

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 この画像の主人公の顔は

小説にあるとおり、貴族的な高貴さと

農奴の野卑さが半々に混じっているように思える。

やっとの思いでドストエフスキーの『未成年』を読了しました。

一応、これでドストエフスキーの大きな傑作と言われている

五つの作品は読了したことになります。(『罪と罰』『白痴』『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』

そして、本作品である『未成年』)

この『未成年』ですが、ロシア文学は登場人物の名前の語尾が

男と女では変わってきたりするんで

なかなか読みにくい、と言われているんですが、

特にこの『未成年』はそういう意味でほかの作品より、群を抜いて難しいです。

というのも、機能不全の一家を描いているので、

主人公の実質上の父親と戸籍上の父親の名前が違うから、余計にややこしい。

そして、例えば、「アンドレイ・ペトローヴィチ」などと作中人物が呼びかけていたりすると、

(実は主人公の父親のヴェルシーロフのことなんだけど)

「誰だっけ?この人?」

みたいになって、迷路に迷い込んだようにハタと立ち止まることになるんですよ。

ですから、最初にググッて、ウィキの人物表をコピーして読むほうが

混乱せずに読めると思います。

通常、このように難解な本には必ず、表紙の裏側とか、付属のしおりなどに

人物の名前とカンタンな経歴が書かれてあったりするものなのですが、

そういう親切が一切ない、かなりキツい本です!

また、この本が書かれた当時のロシアの思想なんてものは、全くわからないし、

ましてや、ロシア正教の教えとか、ロシアの民衆の気持ち、ロシア貴族の矜持みたいなものも

全くわからない。

ですから、正確に物事をとらえようとするのは無理だと判断しました。

多分、こういうのは、もう一生かかってもわからないでしょう。

しかし、こういうわからなさを補ってあまりある普遍的な魅力があると断言しましょう!

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未成年 上巻 (新潮文庫 ト 1-20)

未成年 上巻 (新潮文庫 ト 1-20)

  • 作者: ドストエフスキー
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1969/05/27
  • メディア: 文庫



未成年 下巻 (新潮文庫 ト 1-21)

未成年 下巻 (新潮文庫 ト 1-21)

  • 作者: ドストエフスキー
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1969/06/22
  • メディア: 文庫


う~む

この超魅力の無い表紙、なんとかならないんですかねぇ。

いくら、難解といわれるロシア文学と言われていても、

もうちょっと魅力的な表紙なかったんかい?と思います。

まったく食指が働かないこの表紙…。

読者に「どんな話なんだろう?」と想像の余地を残すような、

そんな本づくりがあってもいいと思うのに。

これじゃあ、「読みたいやつだけ、ついてこい!」みたいな感じ。(星一徹か~~)

読書離れが激しい昨今ですが、出版社さんも

もうちょっと努力してほしいな、と思います。

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この未成年はドストエフスキーの五大傑作と言われながら、

長らく刊行してなかったそうです。

実際、この『未成年』を抜いて巷間では

ドストエフスキーの大作の傑作は四つとも言われているそうですが…。

やっぱり、他のものと比べるとインパクトが薄いような気もするのです。

でも、私の個人的な感想をいえば、『白痴』は本当に読むのがつらかったし、

白痴といわれる主人公ムイシキンに同情はするけれど、共感するにことは到底できませんでした。

それからいえば、こっちのほうが断然面白いけどなぁ。

ドストエフスキーは、機能不全の一家を書くのが非常にうまい作家さんでして、

たとえこういう陰惨なことが、家の中で起こっていたとしても

闇から闇に葬り去るのが世間一般の通念だったその当時、これほどまでに赤裸々に、

しかも綿密でリアルな心理描写をした作品が世に出たこと自体、ほとんど奇跡のような気がしますし、

しかも、ドストエフスキーの作品は、必ずサスペンスの要素が入っていて

最後になってくると、迫力が加速されていって、ページを繰るのがもどかしくなるほど

エンターテインメント性も強かったりするのです。

単なる教養小説ではない面白さがあります。

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本作品は、一見地味ながら、語り口は一人称で手記の形式をとっておりまして、

かなり出だしのインパクトが強いです。

私はたいてい、上巻が終わったところで、作品の解説書などを読んで

作品理解のための下地作りというのを怠らないのですが、

この作品は一切そういうものもないのですね。

頼みの綱は下巻の巻末にある二人の方の解説のみです。

ですが、救いがあるとすれば、翻訳された工藤さんの訳がなめらかで自然な日本語なところです。

しかしながら、読んでいると、作中人物の言っていることが、悲しいかな、ロシア人ではないので、

よくわからないことが多くて・・・・。

いつか岩波とか光文社などから、詳しい解説つきの新刊がでたらいいなぁと思います。

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さて、あらすじに参りましょう。

これは端的にいえば、まだ未成年(ロシアの成年に達する年齢がそもそもわからないけど

20前後でしょうか?)のアルカージィとその父親アンドレイ・ヴェルシーロフの話なんです。

ここで思い出すのが、ツルゲーネフの『父と子』です。

あれも、狂言回しの青年がアルカージィでしたが、

この名前にしたのは、偶然じゃないような気がします。

どうも、ドストエフスキーはツルゲーネフがそうとう嫌いだったみたいで、

『悪霊』の中でも『父と子』の中の実際の主人公であるニヒリストの主人公を徹底的に

こき下ろすシーンも出て来たり、

作中の老大作家はツルゲーネフをモデルにしているといわれていますが、

その容赦ないカリカチュアの仕方は、「お前、どんだけキライなんだい!」って

ツルゲーネフさんが気の毒になるほどです。(汗)

もしかしたら、このツルゲーネフの向こうを張って、自分なりの『父と子』の物語を

描いたのかもしれない、と私は思っています。

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貴族の私生児 アルカージィ・ドルゴルーキー

さて、主人公の名前はアルカージィ・マカーロヴィチ・ドルゴルーキーといいます。

しかしながら、もうそこに誤謬っていうものが生まれていて、

実はアルカージィは戸籍上の父親であるマカール・ドルゴルーキーとは

一滴の血も繋がっていないのです。

彼はドルゴルーキーの妻であった母親であるソーフィアと

この夫婦の雇い主というか、主人であった貴族のアンドレイ・ヴェルシーロフとの

間に生まれた不義の子供だったのですね。

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ドルゴルーキー夫婦というのは、ヴェルシーロフ家に仕えていた召使ですが、

単にお金で雇われていたというより、ほとんど奴隷のような僕婢です。

要するに農奴ってヤツです。人権なんて全く認められてないんじゃないかな。

この頃はさすがに農奴解放令はでていたはずですが、

昔からの因習として、そういうのが残っていたんでしょうね。

今まで奴隷で来たものが、「明日から奴隷じゃなくて、生きたいように生きなさい」

と言われても、お金もないし、そういう人間としての自主性とか、教育もないものに、

自由を与えてやっても途方にくれるだけですから。

彼らはこんな風に、もう徹頭徹尾、奴隷根性が生まれた時からしみついてしまっているので、

主人が自分の妻を寝取ってしまうということに対しても怒らない。

仕方がない、で諦めてしまうんです。

そこらへんが、すでに近代化されつつある西洋の社会とは違う

ロシアの病の深さかな、とは思うんですが。

もうそういう出生から、アルカージィの悲劇は始まっているといえそうです。

父親のヴェルシーロフは家僕のソーフィアとの間にアルカージィとリーザのふたりを

儲けていますが、

正妻との間にも男子と女子の二人を儲けています。

ヴェルシーロフは嫡出子、婚外子に限らず子供には全く無関心な男でして、

子供四人は生まれてから、全員里子に出されていました。

しかも、里子に出すという判断も父親自身が采配を振るった結果ではなく、

周りのものが見るに見かねてそういう判断を下したのです。

当のヴェルシーロフはもしかしたら、アルカージィが生まれた、という認識すら

なかったのかもしれない。

ま、なんといいますか、本当に旧態依然とした貴族らしいやりようといえば言えますよね。

フランス革命以前の大貴族なんかはこういう子供に一片の愛情もかけてやらない人間は

当たり前にいたようですし。

しかし、あの革命からどれだけ時代が過ぎていますか? ほぼ1世紀ですよ。

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と、いうわけで

主人公アルカージィは、ずっとモスクワの里親のもとで暮らしていた。

そして、まあ、中学校まで出させてもらっていたのです。

今の感覚でいうと中学しかでてないの?

って感じですが、当時の中学は昔の日本の旧制中学に似たようなものだろうし、

ほとんどの人が小学校ぐらいで教育が終わっていたことを考えると

この中学校を出たということは、かなり高等教育を授けられた、ということになるのです。

アルカージィは中学校の最終学年になる前までは、非常に学業が優秀でしたが、

自分が貴族の私生児である、ということをはっきり自覚するようになると、

なにかこう、鬱屈としたものが心に生じて、最高学年の成績がガタ落ちになり

大学に進学するのもイヤになってやめてしまったのです。

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というのも、いつの世にもあることですが、

こういう貴族の男と卑しい身分の女の間に生まれた人間って

いわゆるコウモリみたいなもので、

貴族の社会にも、また、平民というか農奴というかそういう下賤な人々の間にも

立ち混ざれない孤独な存在なのです。

だいたいにして、親の不義という事実自体、子供をこてんぱんにするものもなくて、

親というものがそもそも生まれた時点で敬愛できないじゃないですか?

自分は罪の結果の産物なんだ、ということを人にも言われ、自分でも自覚しながら

生きていかなければならない幼年時代を過ごすことは、子供にとってとても不幸なことです。

そもそも、子供は親を選べないのであって、罪の子であっても、

その子供には何の罪もないのですよ。

そう思うと、とてもアルカージィに同情してしまいます。

そうやって、まだ未成年の彼は、自分の中に一つの決心というか

人生の指針というものを見出すのです。

それは、何か―。

これが泣かせるのですが、どんなに貴族から侮蔑的な扱いを受けようと、

自分は目に見えぬ亀の甲羅を着て、いざというときはその中に閉じこもって

そんな扱いをも柳に風と受け流してしまえる術を身に着けること。

そのためには、ロスチャイルドのように、お金をコツコツと貯め、

拝金主義者どもをひざまずかせること。

自分はお金にくらむわけではない。

だが、お金というものは力がある。自分はその力を身に着けたいのだと。

ああ~。読んでいて胸が痛くなります。

愛に餓えて孤独に育った子供はそんなふうに考えるもんなんですかねぇ~。

また、彼は今のところの「自分の理想」を論破されないために寡黙でいることを

自らに課した。

…しかしながら、こういうタイプの人間って孤独なもんだから常に二律背反の行動を

していしまうもんなんですねぇ。

というのは、やはり人間、全くの沈黙に耐えながら生きていくことはなかなか苦しいものなのです。

だから、いつも饒舌にならないように、と気を付けていても、何かの瞬間、

しゃべりたい、という欲望にふたをすることができなくなるもなのです。

自分の胸に秘めていることを誰かに話して「立派なことだねぇ!」と

称賛してもらいたい、認めてもらいたい、という欲求が抑えることが時としてできなくなる。

しかし、そうやってしゃべりすぎた後、どっと後悔の嵐がその身を苛むことも

かなりアルカージィには辛いことだとわかってはいたのですが…。

また、あるところでは非常に意味深長なことも書かれていまして、

ほとほと私を感心させたのがこの一文。

『わたしはワーシンのそばへ寄ると、すっかり嬉しくなって彼を褒めちぎった。それがどうだろう? 

もうその晩には、私はもう彼をさっぱり愛していないことに気づいたのである。なぜか? 

彼を褒めちぎって、そのこと自体によってわたしは彼の前に自分を卑下したからである。

(中略)

中学校へ入ったばかりの頃から、学友の誰かが、勉強とか、気が利いた返答とか、体力とかで

少しでもわたしを抜くと、私はすぐにその生徒と遊んだり話したりすることをやめた。

その生徒を憎むとか、しくじりを願うとかいうのではない。

ただ背を向けてしまう。それがわたしの性分なのである。

そうだ、わたしは生涯ずっと威力を渇望し続けた。威力と孤独をである。』

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同じ兄弟とはいえ、
貴族の嫡出子の兄とアルカージィとでは
扱い方が天と地ほどの差がある。

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アンドレイ・ペトローヴィチ・ヴェルシーロフ

とまれ、アルカージィは中学校を卒業したあと、モスクワをあとにし、

今までほとんどあったことのない両親と妹に会いに行くのだった。

彼は今までのことから、両親から温かいもてなしなんかを受けることなんかは

夢想だにしなかった。ただ、自分の実の父親とはどんな男なのか、興味があっただけ。

どんな悪党なんだろうとね。

しかし、モスクワではちらと耳にはしていましたが、

ペテルブルグの両親は、まさかこれほどというくらい、貧乏生活を強いられていたのです。

というのも、父親のヴェルシーロフは、絶対に自分が豊かだったころのライフスタイルを

変えようとせず、今まで相当な遺産があったにもかかわらず、

それを全部蕩尽させてしまっていたのでした。

それでいて、じゃあ、どんなろくでなしなのか、と思いきや

結構、ヴェルシーロフはかなり魅力的な男なんでした。

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…しかし、私にしてみれば、こういうよくわからない人間が一番厄介だと思います。

悪者なら徹頭徹尾悪者でいてくれたほうが、アルカージィのような人間は

却って救われるんですよ。

こういう、白か、黒かわからない、グレーゾーンにいる人間というのは、

人に「もしかして?」とあらぬ期待をさせるものなのです。

だいたい、DVする男ってこういうグレーゾーン型が多いんですよ。

めちゃくちゃひどいことをされながら、雨上がりの空みたいに、ぱっと光がさすような

そんなやさしさを垣間見せるというか。

人間は弱いものだから、そういうたまさかのやさしさが

その人の本質だと思いたくなるもんなんですよねぇ。

それで永遠にその暴力の呪縛から逃れられないというか…。

ドストエフスキーはそういう病理をよくわかっておられますね。

とにかく、ドストエフスキーの五大傑作といわれる作品は

両親が揃って健全な家庭というものは皆無です。

『罪と罰』と『悪霊』はたしか父親が早く亡くなっていて不在だし、

本作品と『カラマーゾフの兄弟』は、父親がこんな具合にダメ親父だし、

『白痴』はどうだったのかなぁ? ムイシキンはたしか公爵だったような気がするけど、

孤児ではなかったっけ?(ごめんなさい。うろ覚えです。)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

事件の発端 

ペテルブルグに住むようになってまもなく、アルカージィは

中学時代の友人の集まりに参加した。

そこで、友人を介して紹介されたクラフトという男がいた。

アルカージィより、ちょっと年配で26歳だという。

そこでクラフトは「あなたに関係あるある手紙を一通もっている」という。

さて、クラフトが持っていた手紙というのは、どんなものだったのか。

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それは、ひとつひとつ言うと非常に複雑でかえって読み手の方を混乱させるので

端折って言いますが、実の親であるヴェルシーロフは遺産の訴訟をしていて、

今のところはヴェルシーロフに有利にことは進んでいるけれど、

この手紙は、ヴェルシーロフにいささか不利になる文言が書き留められているということ。

クラフトは、自分にはどうすべきか判断に迷うので、実の息子である

アルカージィにこの手紙を託す、ということだった。

結局、このことが幸いして、アルカージィは実の父ともそうとう近しくなるのです。

訴訟に勝って、ヴェルシーロフは大金を手にしました。

今までは、貧窮に喘いでいた一家ですたし、アルカージィも前述した

一種独特の独立不羈の信念を貫くはずでしたが、

お金の力って怖いですね。

あっという間にそういった信念も崩れて、アルカージィも父親のヴェルシーロフよろしく

あぶく銭を、その名の通りあぶくのように蕩尽し、

身なりも上流貴族と見まごうような超一流のものを身に着け、

ルーレット賭博にまで手を出すようになりました。

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アルカージィは金という威力を身に着けたからには、向かうことろ、敵なし、と思ったのでした。

ですが、まさかの出来事が出来します。

賭博場で「いかさま」をやったと濡れ衣を着せられてしまうのです。

それも、自分が本当の貴族ではなく、卑しい女との私生児だというだけの理由で!

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聖痴愚 マカール・ドルゴルーキー

あまりにショックを受けて、アルカージィは熱を出し、

何日間か昏睡状態に陥るのですが(ドストエフスキーの登場人物はすぐにこうなる)

その間に、アルカージィの戸籍上の父親である、マカール・ドルゴルーキーが

ペテルブルグの母親の家にやってくるのです。

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この男もなんていうのか、ちょっと日本人にはなじみにない感じの男で、

要するに、ロシアによくいる聖痴愚と言われる部類の巡礼者なのです。

全くの正当な正教の教えからは外れているのでしょうが、

ロシアの小説にはこの聖痴愚というタイプの人間はよく出てきます。

日本でいうところの、能なんかに出て来る旅の聖みたいなもんでしょうか?

こういう人は別に、教会や寺院で戒壇を受けて正式な聖職者になったわけではなく、

勝ってに世を捨てて、巡礼している人たちです。

まともに聖書も読めなきゃ、当然聖職者なら知っているはずの神学や哲学なんぞも納めていない

ただの遊行の聖です。

ですが、こういう人というのは、一種の神聖さをまとっているというか、ある意味、知力を備えた

聖職者より、貴いところもあるので、よく民間ではあがめられたりもするんですが…。

まあ、ドルゴルーキーはお屋敷のご主人さまに妻を寝取られて、不平もいわず、

巡礼になったのでした。

そこがなんか私には腑に落ちないところでもあるんですけれどね~。

で、解説によりますと、このドルゴルーキーはドストエフスキーの次の小説である

『カラマーゾフの兄弟』に出て来る高徳の僧侶であるゾシマ長老に先駆ける人物らしいですが、

ちょっとそれは飛躍しすぎなんではないかなぁ~と読んでいて思うわけです。

どうも薄っぺらい印象が免れないんです。

きれいごとしかいわないというか。

一番、不思議なのは、そんなに立派な男がうまうまと自分の女房を人に取られて黙っているのか?

おかしいだろ? もっと怒れよ~、なんで怒らないんだろう? と思うのです。

母親のソーフィアと戸籍上の父親のドルゴルーキーはほとんど親子ほど離れていて

実際、ソーフィアをわが娘のように育て上げたのがドルゴルーキーだったんです。

そして、ソーフィアが18歳のとき、嫁にもらい受けたのですね。

そこに、お屋敷の若様が来て、ソーフィアをわが物にしてしまったのです。

ソーフィアは若様に盾突いて否やとは言えなかったのかもしれませんが、

でも、こう自分というものがなくて、人のいいなりになってしまう、というのは

どうなんでしょうかねぇ。

まぁ、出会ったときのヴェルシーロフは、当時妻を亡くしたばかりで、25歳の輝くような

美青年だったのです。

そのとき、ソーフィアは18歳だったし、もうすでに50歳を軽く越えた実の夫よりも

ヴェルシーロフが魅力的に見えたに違いは無かろうし、実際、憧れていたんでしょう。

でもね、別にソーフィアは『悪霊』に出て来る農奴出身のダーシャみたいに

飛びぬけた美人というわけでもなく、ただただ純朴な田舎娘だったのです。

ヴェルシーロフは、どういうつもりでソーフィアが気に入ったのか、そこはそれ

男女の愛の難しいところなんですが、

思うに、こういう鈍いといっていいくらい素朴な女の傍にいるということは

魂の高揚などはないぶん、リラックスして和むという効用があるのかもしれないです。

まあ、なんにせよ罪なことには違いない。

最期にマカールは、あのときソーフィアを赦して旦那様に渡してやるのではなく、

したたかに鞭で打ちすえて己の犯した罪をわからせるほうが慈悲だった、みたいなことを

言っていますが、それは本当にそうだ、と私も思います。

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運命をあざなえる三人の美女 リーザ、アンナ、カテリーナ

そしてまた、この小説には主要な三人の美女が登場します。

ひとりはアルカージィの妹のリーザ。

彼女は『悪霊』の中のスタブローギンの幼馴染のダーシャを思わせるところがあり、

あろうことかそう好きでもないのに、セリョージャ公爵の子供を宿していたりして、

よくわからない謎な妹です。

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もう一人は、億万長者のソーコリースキー老公爵の娘で

アフマーコフ将軍の未亡人である、カテリーナ・ニコラーエヴナ・アルマーコワ。

この人はいくつくらいなんでしょうか?

多分三十前後。もう絶世といっていいくらい美しい人なんです。

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アルカージィはこの人に憧れて、好きになってしまう。

三人目はアルカージィにとってみっつ年上の異母姉である、

アンナ・アンドレーヴナ・ヴェルシーロワ。

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この三人は、一見素晴らしく上品で立派な心映えの女性に見えるのですが、

本当の腹の中はよくわからない。結構、あくどく汚いことも考えていたりするのですが、

頭が相当にみんないいので、容易にそれを悟らせてくれません。

特にこのカテリーナとアンナの対立というのは、

カラマーゾフの兄弟のドミートリィをめぐるカテリーナとグルーシェンカを思わせるのです。

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さて、そんな中、ソーフィアの名前ばかりの夫であったマカール・ドルゴルーキーが

老衰のため、亡くなります。

ロシア正教の教えでは、離婚はできず、

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母親のソーフィアとヴェルシーロフは実質上は夫婦であっても、

きちんとした結婚はできなかったのでした。

アルカージィは、今度こそヴェルシーロフも母親と結婚するだろう、と思うのですが、

しかし、そうは問屋は降ろさなかった。

実は狂乱の恋に悶えていたヴェルシーロフは、何もかも捨てて、

ある女に結婚を迫ろうとするのです…。

たぶん、ヴェルシーロフのような男は、生涯男として現役でいたくて

収まる所に収まりたくないのだろうと思います。

いかにも、ロシア貴族らしい手前勝手な人間の考えそうなことですね。

とはいえ、その気持ち、わからないでもないです。まだヴェルシーロフは40代ですしね。

ここら辺の油ギッシュな感じは、カラマーゾフの極道オヤジのフョードルに通じるものがあります。

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ここからは、手に汗握って本を読んでほしいですね!

ドストエフスキーの小説の展開の仕方は

たいてい決まっていまして、

途中までは、みな理性的でほどよく自制が効いているのです。

西洋的な知性のとれた貴族的な雰囲気ですらあるのに、

どうしたはずみなのか、そういった上っ面は途中から吹き飛んで、

ロシア固有の血の濃さゆえなのか、狂気が支配するのです。

そして、コツコツとそれまであらゆる登場人物が築いてきたものを

突然、怒涛の嵐が巻き起こすごとく、あらゆるものをなぎ倒していって

すべてが空中分解してしまうのです。

そういったカタストロフィーも楽しんでいただけたらな、と思います。


三月読んだ本のマトメ [読書&映画]

最近、so-netの調子が悪いです!

というか、私のPC、ちょっと前に買い換えてwin10にしたのだけれど、

なんというかすごく使いづらい。

そして、初期設定の段階でものすごく排他性が強くしてあるのか、

ログインしても、すぐログアウトを勝手にされてしまうのですね。

まあ、そういうのもいろいろとネット検索して、

設定を変えれば、よくなるんだろうけど最近、

そういうチマチマしたことするの、嫌になってきたりしてるし。

おばさんはね、キカイに強くないのよ。

ああ、XP時代が懐かしい。あれでよかったのになぁ。

最近、ちょっと調子悪くて、本も読んでない、

というかアニメのベルばらにはまりすぎて、

アニメばっかり巻き返し繰り返し見てたから、あんまり突っ込んだ本が読めなかったなぁ~。

アニメって原作と全然違うね。

あれはトラウマの話だったんだなぁ。

つい自分の心象風景を重ねて登場人物を見てしまうからか、思い入れもひとしおよね。

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ルパン対ホームズ (ハヤカワ・ミステリ文庫)感想


読むのが苦痛だったぁ。

筋というかトリックがレトロすぎて、全然ハラハラドキドキ感がない。

ただ、ホームズの冷静沈着さ、ルパンの大胆奇抜さ、

どちらも英仏にその名をとどろかせた傑物ゆえのプライドをかけた応酬は見事だったが。

私は、ルパンシリーズを全巻踏破するつもりでしたが、もうそれはやめにしたい、と思います。

これ以上読むと読書がキライになりそうなので。
読了日:3月27日 著者:モーリス・ルブラン


 

恋するソマリア恋するソマリア感想


高野さんのソマリラヴな気持ちは一冊の本を書き終わるだけではすまなかった。

以前はソマリランド中心だったが今回はソマリアがメイン。

ソマリアを具象しているのは、ホーンケーブルテレビの豪腕姫・ハムディ。

この人は生粋のソマリ人なのだろうか?

西洋人のハーフのように色が白く、整った顔立ち。

さながらアラビアンナイトのお姫様のようで写真で見るだけでも絶世の美女。

しかし、彼女もソマリアも気難しく、なかなか高野さんに本心を見せない。

ここまで、ソマリアを好きになってどうする?とは思うけれど、理性でわりきれないのが恋だから。


読了日:3月19日 著者:高野秀行




よくできた女(ひと) (文学シリーズ lettres)よくできた女(ひと) (文学シリーズ lettres)感想


excellent woman(よくできた女)とは、

昔のイギリスのハイミスに対する蔑称だったのだろう。

育ちもよく、教育があり、家事一般がキチンとこなせ、面倒見もよい。

しかも娘をかばううるさい親がいない。

だから使いやすい、都合のいい女という意味だ。

 主人公は決してめげない。今ここにある幸せに感謝できる人間だ。

決して分にすぎた夢はみないと自戒もしている。

彼女のささやかなフラットに、なぜかド派手な夫婦が越している。

いつの間にか夫婦喧嘩の仲裁役を担わされてしまう。

オースティンの流れを汲んだほろ苦い傑作。


読了日:3月16日 著者:バーバラ・ピム


徒然草REMIX (新潮文庫)徒然草REMIX (新潮文庫)感想


徒然草とそれに影響を及ぼした枕草子に思いをはせたエッセイ。

ふわっと優しい語り口ながらも、

人の底の底の探った本音を洞察しているところは実に鋭い。

「財産は残すものではない」

「べらべら思ったことを話す人間は見苦しい」と本気で考えているのなら、

なぜ兼好は自分の美意識を信奉して後世に残らぬように

徒然草を燃やし捨てなかったのか?

そこが最大の矛盾だなぁと読みながら思っていた。

が、酒井さんは徒然草自体が大いなる兼好の自慢オンパレードであって、

ナンダカンダいいながら認証欲求の激しい人だったのだろうと結論付けている。サスガ。


読了日:3月15日 著者:酒井順子


時平の桜、菅公の梅時平の桜、菅公の梅感想


歴史的人物はどこに視点を定めるかで、悪者になったり、いい人になったりする。

ふつうは菅原道真がいい人で時平が悪者になるのだが、

この小説はその反対。

時平はあんまりお勉強はできなかったけど、政の本質を知っていた人。

して道真のほうはすんごく俊才だったけど、KYの困った人。

公卿のみなさん、困りに困って、道真が二度と帰って来られぬよう大宰府に送り込む。

本当は中国ぐらいまで行って欲しかったんだけどね。

ま、いいか。そこでなら、いくら威張っていてもいいからね。


読了日:3月9日 著者:奥山景布子


平安版・トランスジェンダー物語  さいとうちほ「とりかえ・ばや」  その後 [読書&映画]

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わたくしのブログをお読みいただければ、

わたくし、結構西洋の純文学を読んでいるっていうのは

わかっていただけられていると思うけど、

でも、こういう話はほとんど「面白い」じゃなくて

「非常に興味深い」話であって、

そのいわんとするところを理解するために、

じっくりじっくりと精読しなきゃならないもんなんですよ。

つまり、純文学というのは、

ちびりちびりとその味を堪能するウィスキーかブランデーのような存在。

なにしろアルコール度数が高いからぐいっと飲めませんね。

しかし、かもし出す芳香のよさは絶品なのです。

一方、サスペンス小説や推理小説は、たいていぶ厚い本なのに、

先が知りたくて、一晩明かして読んでしまうということは多々あること。

だからといって、こういう類の作品が劣っているとは思わない。

いわば、方向性が違うってだけの話。

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わたくし、日常に疲れたとき、

読む作家って大概決まっているんですよ。

まあ、サスペンス小説、推理小説も好きなんだけど、

こと、歴史モノにかぎっていえば、

藤本ひとみ、佐藤賢、さいとうちほ、ですね。

この人たちの作品は一回読んで終わり、ということがない。

さいとうちほは、作家といってもマンガのほうですから、

下手をしたら、一年中寝る前に読んでいることもあります。

 以前、この「とりかえ・ばや」についてトピを挙げたら、

なぜか非常に反響があるので、

気をよくして、続きを書きたいと思います。

注意:ここからは「とりかえ・ばや」の⑤巻から⑦巻の感想です。

ネタバレを嫌う人は読むこと厳禁ですよ。

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さて、本題。

どこで終わったんだっけ?

あ~、そうそう。

端的にいっちゃえば、沙羅双樹は石蕗(つわぶき)に

女であることが知られてしまって、

歌会という衆人環視の中、彼のおかげで女であることが露見せずにはすんだんだけど、

石蕗はつい従来の色好みがむくむくともたげてきて、

膂力ではどうしてもかなわない沙羅を犯してしまうんです。

瀬戸内寂聴さんもおっしゃってますね~。

平安の時代の恋愛ってほとんどがみんな強姦だって。

真っ暗な中、男がしのんで女の寝所に入ってきて、

長い髪をぐっと引っ張られたら、抵抗しようがないって。

で、既成事実を作っておいて、女ががっくりと諦めたとき、

恋愛が成立するって。

なるほどなぁ~と思いました。

恋愛を成就するとき、女君はおつきの女房に守ってもらわないと

防ぎきれるもんじゃないんですよね。

しかし、こういう場合、男のほうはおつきの女房から

攻めて行って自分の陣営に引き込むんですよ。

(源氏物語とか真面目に読んでいるといくつもそういう場面に出くわす)

そして、最後だれも自分を守ってくれる人がいなくなった姫君は男に手篭めにされちゃうんですね。

あ~、悲しい。

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とりかえ・ばや(5)

とりかえ・ばや(5)

  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2014/09/10
  • メディア: Kindle版


とりかえ・ばや 6 (フラワーコミックスアルファ)

とりかえ・ばや 6 (フラワーコミックスアルファ)

  • 作者: さいとう ちほ
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2015/02/10
  • メディア: コミック


とりかえ・ばや 7 (フラワーコミックスアルファ)

とりかえ・ばや 7 (フラワーコミックスアルファ)

  • 作者: さいとう ちほ
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2015/07/10
  • メディア: コミック


沙羅はものすごくショックを受けました。

今まで体は女でも、心は男だと信じてきたのに、

石蕗のことにせよ、本当にいやならどんなことをしても

逃げ出せる隙もあったはずなのに、

なぜか自分は最後は男のいいなりになってしまった。

というか、石蕗のそういう男の部分をすんなりと受け入れてしまっていた。

そんな自分を恥じて死んでしまいたい、と思いつめる沙羅双樹。

しかしですね。

現代でも暴漢に襲われた女性ってみんなこんな風に沙羅双樹と同じこと思うらしいし、

相手も「おまえも結構喜んでいたじゃないかよ」って言われて、

さらに傷つくみたいです。

でも、担当の刑事さんやお医者さんはいうそうです。

「いいえ、人間の体というのは、そういう風に反応するものなんです。

そういう風に作られているんですよ。

だから、あなたが自分の意思の力で逆らえなかった、と思うのは間違いです。

それは、合意があって行われたものでなく、明らかに暴力です。」

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

で、男は好きだからやった、で

後腐れなくていいですね。

しかし、沙羅はそういうわけにはいかなかった。

ただの一度だけ、それも好きでもない男と関係をもたされたとしても

それで妊娠することってあるんですね~。

あんまり心根の深さと関係なく、してしまうのが妊娠。

おろおろしているうちに、だんだんと大きくなっていくお腹。

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どうしよう、死にたい、と思いつめているうちに

足は自然と吉野に向かっていく。

沙羅は精神的な父親のような存在、吉野の宮の前では

臆することなく、弱音を吐き、号泣してしまう。

「死んでしまいたい」

「いや、そうではなかろう。そなたは死にたいと思ったなら

わざわざここまでくることはなかった。

そなたは生きようと思ってここへきたのだ」

と慰める宮。

宮は意味深長なことをいいます。

「私も昔、政治闘争に敗れ、この地に逃れてきた。

私もそのとき、本当に絶望をして死んでしまいたいと思ったが、

しかし、古い自分は死んで、また新しい人生を送ると思えば、

つまり違う人生を二度生きるとすれば、それもまた味わい深い人生よ」

と慰めるのですね~。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

そして、双樹は秘密裏に宮廷を離れ、

子どもを生んで母になる決心をするのです。

つまり、今まで男であった自分に対して決別することを意味していました。

今まで男であった自分には、荘厳して別れを告げたい。

なんていうんですかね、男であった自分を愛していたんですよね、沙羅は。

そういう自分を特別労わってやりたい、惜別の情をしめしたい、と思ったんでしょう。

そして、そういうことは時を選ぶものなのです!

宮中で行われる桜の園遊会において、

私はこれを最後に宮中を去る。

どうせなら、うつくしく散華するのみ。

大きくて重たくなったお腹も、平安の男の装束はゆったりしてますので、隠れてしまって

正体を見破られることはありません。

沙羅は伴の一人ひとりにいたるまで装束を凝らし、

自分も美々しく装いを凝らし、この日を迎えます。

宴もますますたけなわになったころ、

公達らの漢詩が披露されます。

沙羅双樹がもらった題は「春」でした。

もともと才気煥発でつとに有名な沙羅でしたが、

この日のたそがれ時、桜吹雪が降りしきる中、沙羅双樹は

一世一代のすごい詩を詠みます。

時代はまだ平安の初期だったんでしょうかね~。

平安初期は漢詩を作っていたんですよ、まだ。

(後期になると、短歌のみになるらしいです。)

(ここでは和漢朗詠集から実際に詠まれた漢詩を沙羅に披露させています。

本当に美しい詩なので、ぜひ読んでみてね)

沙羅の父親である関白左大臣も沙羅の立派な男ぶりをみて

感動の涙を流すのを禁じえません。

帝も沙羅双樹を日ごろから才気があって気が利いていて、とお気に入りだったのですが、

改めて、そのすさまじいまでの才能に感じいるのでした。

そして、褒美として衣を下賜します。

そして、その衣をひらりと肩衣にかけ、御礼の拝舞をします。

それがまたまた見事な舞なのです。

周囲を圧倒させる才能。

思わず涙を流してしまう睡蓮。

東宮に何で泣いているのかと訊かれても

自分でもよくわからない。

ただ、沙羅双樹の緊迫した気持ちが伝わってくることだけは分かりました。

「そなたの兄はつくづく才気のかたまりじゃの」

ほとほと感じ入ったようにつぶやく東宮。

ついに帝は沙羅を右大将に昇進させます。

しかし、その後、沙羅双樹は突然出奔してしまいます。

あまりに突然なことで、騒然となる宮中。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

沙羅が宮中を去る前、ひとつのことが沙羅に内緒で計画されていました。

沙羅一人ではお産もままならないため、

沙羅双樹は乳母のあぐり夫婦には本当のことを打ち明けて

協力してくれるように頼むのです。

しかし、あぐりはあまりに心配で、こっそりとお腹の子どもの父親である

石蕗に姫をかくまってくれるように相談しました。

内心、あぐりは石蕗を憎んでいましたが、

なにしろ石蕗は、帝といとこの関係、で大貴族です。

男をやめてしまった沙羅には後ろ盾になる男君が必要なことはわかっていました。

やはり、あぐりは自分が守り育てた姫君には

幸せになってもらいたいのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

こうして、抵抗はしたものの、沙羅は結局宇治にある石蕗の別荘にかくまわれることになりました。

一緒に住んでみるとつくづくと分かりますが、

石蕗ってどうも、短慮なんですよねぇ。

色好みなのも悪いとは申しませんが、

どうも、タイミングが悪い。

石蕗は、沙羅がいつわって夫婦となっていた四の姫にも、ほぼ同時に

妊娠させておりまして、沙羅と四の姫の間をあっちに行ったりこっちに来たりしてるわけですよ。

で、ここぞ、というときに石蕗はいない。

そんなこんなで沙羅は情緒不安定になったのか、

産んだ男の子は死んで生まれてきました。

ああ、なんてかわいそうなわたしのやや、

沙羅は絶望します。

そんなとき、かつての自分にそっくりな公達が沙羅のもとを訪れるのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

それはなんと、自分を探しに来た、片割れのきょうだい、睡蓮なのでした。

睡蓮は、今まで女として生き、どうしても是非にと乞われて

宮中の女東宮の元で尚侍(ないしのかみ)として仕えることになったのですが、

お互いに思慮深くて、慎み深い性格である、

つまり、とても価値観が似ていることを瞬時にわかってしまうんですね。

そして、お互いのことが好きになるんです。

東宮は「こんな美しい人を今までみたことがない。

しかし、自分の美しさを誇示するわけでもなく、

万事控えめなこの人は、なんと好ましいんだろう」

と思うんです。

睡蓮は女東宮を、なりが小さくて外見は子ども子どもしているように見え、

実際、無邪気でかわいらしいところもある反面、

どんなこともにも不平をもらしたりせず、自分の心をを抑えて、

慎重にものを運ぼうとする聡明さに心打たれていたのです。

はじめ、東宮と睡蓮はお互いを敬愛していたのですが、

だんだんと愛情を感じるようになるのです。

睡蓮は実は自分が男だと知っていますから、

これはまさしく、紛れもなく「恋だ!」と納得できますが、

東宮のほうは、よくわからない不思議な感情に包まれるんですよ。

睡蓮は女なのに。

何か単に「好き」という感情だけでは済ませられないものがある。

しかし、睡蓮が帝のところへ入内する話が進行するにつれ、

東宮は寂しさとやりきれなさが募ってくる。

自分の大好きな女官が帝の女御になれば、

自分も誇らしいのに、なぜ嫉妬めいた感情がでてくるのかと。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

しかし、睡蓮は入内の話を断りました。男だから当然ですね。

本来なら、帝の思し召しであれば断ることはできません。

東宮は「本当のことを話せ」と睡蓮に迫ります。

睡蓮は涙ながらに、

「今まで東宮様をはじめ皆様を欺いていて本当に申し訳ありませんでした。

もう、かくしておくことが出来ません。実はわたくしは男なのです」

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

あ~、なんということ!

周囲に知られてはならない秘密でしたが、

しかし、東宮は却って自分の気持ちの不可解さが、理解できてすっきりしました。

自分はそれとは知らずとも男としての睡蓮の部分に惹かれていたのだと。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

睡蓮は家に帰って、自分が男として生きる人生を選びます。

そして、理由もわからず失踪した姉を探しに行くのです。

しかし、理由が分かってみると、なんとも姉の沙羅双樹がかわいそうで、

短慮な石蕗のやりようが赦せない。

睡蓮も、恋する男子なので、女を思いやる男の気持ちは分かるのです。

自分は東宮様の幸せを一心に祈り、自分の気持ちなど二の次で生きてきた。

睡蓮は、東宮様の幸せこそが自分の幸せであり、東宮様のかんばせを決して

曇らせることはするまい、と心がけて生きていたのです。

それなのにどうでしょう!石蕗のやりようは。

自分のことだけを考えている石蕗が赦せない。

今までそれなりに生きがいを感じながら男の世界で生きてきた沙羅双樹の人生を

めちゃくちゃに踏みにじっても、それをなんとも感じない鈍感な男。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

こうして、ふたりは石蕗には黙って失踪したかに見せかけ、

吉野の宮のもとへと旅立つのです。

吉野では、男と女を入れ替える修行をし、

それなりに何とかカタチがついたところで

二人は都に帰ります。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

しかし、取り替えてみて、本来の性に戻った二人ですが、

性格が真逆ですので、周囲の人は不思議だ、と思うのです。

太陽のように、アグレッシヴな沙羅双樹。

月の光のように、静かで落ち着いているのが睡蓮。

しかし、だからといって女としてたしなみがない、とか男として覇気がない、というわけでもないんですねぇ。

ふたりとも本来の性にもどって、また新たな魅力が増しているのです。

特筆したいのは、男となった睡蓮のかっこよさですかね。

もともと口数が少ない睡蓮は、沙羅双樹のようにハキハキしたところがない分、

たたずまいとか物腰に威厳と気品が増して見える。

寡黙な分、沙羅双樹が男であったときより、数段男ぶりが勝って見えるのですね。

内気だといっても、ここぞと言うときは、そのタイミングをはずさないのです。

男になって宮中に戻ってきたとき、またもや未練たらたらの女々しい石蕗にすがりつかれるのですが、

なんといつも大人しい睡蓮が石蕗を蹴っ飛ばして声を荒げて罵倒するのです。

「沙羅双樹から四の姫を盗んでおいて、何をいけしゃあしゃあと!」

普段、大人しい人が怒るのって、迫力ありますしね。

一方、いなくなって、切ない恋心を抱いていた東宮は男の姿になった睡蓮を

その声を聞いて一発でその正体を見破るのです。

このシーンは何度読んでも感動しちゃう~~。

後半は睡蓮の活躍ぶりがすごいです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

思うに、この話って、中性的な話ではなく、両性具有的というか、

ヘルマフロディトスっぽい話なのです。

人間はというか、普通人生はいわばワンウェイ・ティケット。

ひとつの道を選んだなら、選ばなかった道を知らないわけですから、

時に人は立ち止まり、

自分の選び取った裏側の道であればどうだっただろう?と後悔したりするものですよ。

しかし、この二人は、両道に通じている。

しかも、ふたりとも、男にも女にも、どちらのほうの機微にも通じているのです。

これほど強いことなんてないでしょう。

こんなふうな類まれな道を歩んできたきょうだいが、

これから天下を治めていく帝や東宮に

今まで培ってきた力で助けるのであろう、と思われます。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

いみじくも美輪明宏さんがおっしゃってますね。

「色気っていうのはね、エロのことじゃないのよ。

相手を気遣う優しさが、体を通してにじみ出るのが色気なの。」

本質が一緒でも、それが男というからだを通して現されれば、それは益荒男ぶり、頼もしさ、と映り、

女というイレモノで表現されると、女らしさ、優雅さ、手弱女ぶりと移るモンなんでしょうね。

あ~、はやく次が出ないかな。楽しみにしてます。


プルースト『失われた時を求めて』を全巻踏破! ②アルベルチーヌ その2 [シリーズで考える深い考察]

ふう~。

考えてみると、わたくしのブログってはちゃめちゃですね。

ただのじみ~な読書日記風なブログか、

と思えば、いきなりハンドメイド日記にはやがわり。

しかし、そのどちらも自分なんですよね。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

さて、今日はアルベルチーヌの続きですね。

そう、アルベルチーヌは主人公である猜疑心の強い主人公を残して、

奇妙な同棲生活に別れを告げるのです。

そこで、主人公はアルベルチーヌから別れいったことに、ほっと安堵をすると同時に、

とてつもない喪失感を覚えてしまう。

…って読んでいて、非常にイライラする箇所なんですよね。

この人は、いったい何を考えているのだろうかってね。

主人公は本当に自分本位な人です。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

要するに、2巻で突然「スワンの恋」って章がでてくるんですが、

これって、主人公が生まれる前の話で、

この小説はこの「スワンの恋」以外はすべて「私」の一人称で語られるのに、

この章だけ違うんですね。

この「スワンの恋」だけで、独立した一個の中篇小説ができるくらいです。

(実際、『スワンの恋』という映画もある)

実はこのスワンの恋は主人公とアルベルチーヌの恋愛の雛形になっているんですよね。

スワンと言う人は、ユダヤ系の株の仲買人の息子なのですが、

まあ、親がとってもリッチだったのと、彼自身が極めて眉目秀麗で、社交術にも長け、

かつ、芸術品の造詣にも深いディレッタントだったので、

社交界の寵児にまで上り詰めた人だったのです。

それなのに、どういうわけかすごく美しいけれど、

高級娼婦のオデット・ド・クレシーと結婚してしまうんです。

それこそ、社交界にとって彼の結婚は大スキャンダルでした。

そして、彼は社交界から追放されてしまうんです。

でも、スワンの恋の仕方っておかしいんですよ。

実は、スワンの女の好みってとっても庶民的だったんです。

こう、なんていうのかな、むっちりと肉感的な女、

作中の言葉を借りて言えば、「ばら色の肉体を持った女」が好きだったんですね。

つまり、オデットは美しいけれど、やせぎすで、

見てくれはよくて、アクセサリーとしてつれて歩くにはまことに結構な女だけれど、

こう男として女を感じたい部分には、

オデットはスワンに何の感慨も与えられなかったということなんでしょう。

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ところで、スワンにあこがれていた主人公は、スワンの真似をしてみたかったんじゃないかな。

オデットはスワンのことが好きで好きで、どうしても結婚してほしい人だったので、

あの手、この手でスワンを攻めていくのですが、

しかし、アルベルチーヌはそんなオデットとは違っていたのですね。

アルベルチーヌのほうが悲観的で、

オデットのほうが、アグレッシブでファイトのある女だったのでしょうか。

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アルベルチーヌはとても美しくて、利発で、そしてとても優しい。

しかし、なぜかとらえどころのない謎めいた一面があったのです。

あと、なにかこう全ての面で投げやりとでもいうか、あきらめていた様子が伺えるのですね。

結局、主人公がアルベルチーヌと別れることができなかったのは、

その謎を解き明かしたかったからなんだろうと思う。

ときどき、アルベルチーヌの放心した表情から、キラリっと目から火花が散ることがある。

いったいそれはなぜなのか。

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しかし、アルベルチーヌは決心をして主人公のもとから去っていってしまう。

フランソワーズから渡された手紙は、本当にすばらしい手紙で、

無駄なことは一切書いてないし、相手に恥をかかせるようなことも、

ましてや責めるようなことも書かれていない。

ただ、別れるときがきたようだ、と自分の意思をはっきりと書くのです。

それでいて、優しさが漂う、なんともいえない切なさが溢れた別れの手紙です。

わたくし、思わず、三四回読み直しましたね。

生きているうちにこんな手紙を書ける大人の人間になっていたいものだなぁと心のそこから思いました。

それなのに、たかだか二十歳かそこらの人間がこんな手紙を書けるものかしら?

ん~、やはりそこは小説なんだと思います。

しばし、呆然としたあと、主人公はなんとかアルベルチーヌを取り戻そうと

親友のサン・ルーを自分のかわりにアルベルチーヌが身を寄せているおばの里である、

トゥールまで行って説得してもらったのですが、アルベルチーヌは首を縦には振りませんでした。

何回か、二人の間には手紙のやりとりがあり、

主人公が脅したりすかしたりしてアルベルチーヌをどうにか取り戻そうとやっきになっているのに、

返事の手紙は一見、優しさや思いやりには溢れているけれど、どこか彼女の本心を隠した

お行儀のよい手紙しか来ませんでした。そこにはアルベルチーヌのどんな感情も見えないのです。

しかし、ほどなくして主人公のもとに、電報とアルベルチーヌからの手紙が同時に来ました。

電報はアルベルチーヌのおばからで、アルベルチーヌが馬に乗っていた際、事故で落馬し、

そのとき、木に全身を強くぶつけて死んでしまったという知らせでした。

そして、手紙はアルベルチーヌが死ぬ直前に書いた手紙で

「もういちど、あなたのところへ戻っていいでしょうか?」

と、今までの優しいながらもどこか冷めた調子の手紙から、打って変わって

思わず本心が吐露された手紙だったのです。

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わたくし、これは深読みかもしれませんが、

この手紙を書いたとき、アルベルチーヌはそうとうに追い詰められて孤独だったのだと思います。

誰にも頼れず、誰にも愛されていない。

そんな心の弱さからつい本音を主人公に漏らしてしまった。

けれども、主人公は本当にアルベルチーヌを愛しているわけではないので、

一旦は戻れるかもしれないけれど、いずれまた、捨てられるに違いない、と思ったのではないかなと。

そう悟ったとき、彼女は手紙を書いたことを後悔したのでしょう。

せめて、別れたあとくらいは、彼に軽蔑されることのないよう、

手紙の中だけでも矜持を保っていたいと願っていたのに…。

つまりは、彼女は自分の心の弱さに絶望してしまうのです。

で、事故に見せかけて、彼女は自殺してしまったような気がするんですねぇ。

あるいは、自分では気がつかなくても、無意識にそういった事故に向かわせていったのではないかと。

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主人公が疑っていたように、アルベルチーヌは同性愛に走っていたのかもしれません。

よせばいいのに、彼女が死んでしまった後でも、

主人公は彼女の素行調査をして、どんなに彼女が彼のしらないところで

放縦な性生活を送っていたかを知らされるのです。

でも、それは現代の同性愛者の愛とはちょっと立場が違うようにわたくしには思えるんですね。

この頃、ブルジョア階級の娘でも、持参金がなければ結婚できない、と書きました。

貴族の娘であっても、たとえば兄弟がいたりして、財産を分割すると貧乏になってしまうのが

わかっている場合には、結構平気で娘を修道院へ送り込んだりする親なんかはめずらしくなかったのです。

修道女になるか、あるいは、どこかお金持ちの家で住み込みで家庭教師をするか、

あるいは、彼女が美人なら高級娼婦となって、金持ちのパトロンにすがって生きるか、

まあ、そのぐらいしか道がないのですね。

それでは思い切って、本当の庶民、例えば、魚屋とか肉屋などの男と結婚する、というのなら

また話は別ですが、(そこには本当にお互いをいたわりあうような愛がなければならなのは

必然ですが)、アルベルチーヌのように、教育も教養もある女性が字も読めない男を好きになったりする

可能性は非常に少ないような気がします。

ま、何事も世の中には例外というものは常にありますが。

(ロレンスの『息子と恋人』はブルジョアの娘が、

粗野な、だけど非常に美男である炭鉱夫と結婚して、

価値観の違いからどんなに不幸な結婚生活をしたかを縷々と書き綴られています)

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つまりですね、主人公のような自分本位の男に囲われるような生活というのは、

男の性の玩具にされるということなのだと思います。

そこには、優しさもなく、ただただ、男の下劣な興味本位の性的満足しかないんだろう、と思いますね。

そういうのは、かなり心に堪えることなのだと思います。ささくれてくるんですよ。

まあこの頃の男性って結婚しても、そういう人は別段めずらしくもないんでしょうが、

それでも『結婚』して一家の主婦になるということは、その人の尊厳を守ってくれるものだと

思います。なんたって自分の親兄弟もいますし、世間体もありますし、

冷えた夫婦仲でも、お互いに恋人を作って、そ知らぬふりをして

暮らしていたりしますしね。

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疲れててくるんですよ。、

そういう男の愛人になるのは。

もともと男女の抱擁というのは、お互いの気持ちを優しくさせるというものだと思うんですよね。

愛し合っている二人ならば。

心を許しあっている仲ならば、お互いの肌のぬくもりもきっと心地よいでしょう。

しかし、アルベルチーヌは気が休まるときがない。

眠っているときしか、彼女には心の自由がない。

だから、彼女はすぐに眼を閉じて、没我の眠りの世界へと入っていってしまうのでしょう。

彼女は現実から逃げ出したいんですよ。

このどうにもならない現実から。

誰にも守られることのない自分。

それどころか、頼りにしたい恋人からは、いつも、猜疑心に満ちた目でじろじろ観察され、

尋問口調であれこれ言われたりする。

ほとほと愛想が尽きちゃったんでしょう。

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牧歌的な少年時代をつづった一巻には、突然、散歩道のモンジューヴァンで

音楽家であるヴァントイユの娘が女友達と抱き合っているのを

まだ幼い主人公が目撃してしまう、というびっくりな一節があるのですが、

アルベルチーヌはそのヴァントイユの娘の友達と親しかったのです。

たぶん、このふたりは、持参金がないもの同士だったんですね。

その当時は、別に結婚できないがために、その代償として同性愛に走る人は

結構いたわけですよ。

そういう人たちって、どこか寄る辺がなくてさびしいんですね。

だから、さびしいもの同志、寄り添って生活しているんです。

女同士であっても、肌を摺り寄せれば気分的に和むときもあっただろうと思うのです。

なにしろ、人間ですものね。

男の代償としての同姓愛だったような気がしてならないのですね。

アルベルチーヌが主人公に隠れて、主人公の知らない女と抱き合っていたのは、

主人公から執拗に責められて、心の均衡を取り戻したかったからじゃないのかしら?

子供が不安になって母親の懐に飛び込むように。

ながくなりますので、つづきはまた。


プルースト『失われた時を求めて』を全巻踏破! ②アルベルチーヌ その1 [シリーズで考える深い考察]

プルーストをお読みになった方なら、なぜ①概論のつぎに

いきなり②アルベルチーヌになるんだ!とお怒りになるかもしれません。

そうなんですねぇ~。順番どおりにいくと、作者の幼年時代・コンブレーから始めるのが

妥当なのかもしれませんが、

まあ、どうせわたくしのブログは、学術的には何の根拠もない、

自分が感じたままの感想というか要するにたわごとしか書いてないので、

気分的にアルベルチーヌなわけです。

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アルベルチーヌは、一読しただけでは、よくわからない謎のオンナです。

ざらっとあらすじをいいますと、

20世紀初頭のフランス。

ブルジョアのいいところの坊ちゃんである主人公は

生来、脆弱なうまれだったんですが、

あるとき、生涯の宿阿ともいえる、喘息になってしまったんです。

パリは空気が悪いんで、すこしリゾート地で療養しましょう、ってことになるんですね。

主人公はこのとき、いくつぐらいなのかな、たぶん十代後半かもしれない。

わたくしたち、日本人はフランスの海岸でリゾート地というと、

すぐに、地中海のほう、プロヴァンスとか、カンヌとか、そういう太陽燦々と輝くところを

想像してしまうんだけど、

意外と当時はノルマンディーの海岸が高級リゾートだったんですね。

で、バルベックという海岸へいくんです。

バルベックは作者が作った架空の町ですが、

モデルはカブールというところです。

カブールと言ってもわからない人もいますから、

そう、のだめちゃんが千秋先輩と行ったサン・マロとか

観光地でめっちゃくちゃ有名なモンサンミッシェルのほう、といえば

わかるかしらね。

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そうです。

そこで、主人公はおばあさんと一緒にやってくるんですが、

何しろ知ってる人がいない。

なにかこう所在ない思いをするんですね。

しかし、時間がたつにつれ、いろいろと知人、友人になる人も多いんですが、

そんな中にアルベルチーヌも入っていたのでした。

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アルベルチーヌを見たのは、最初は五六人の少女の固まりとして

見かけたんです。

みな、それぞれにいいところのお嬢さんっぽい子達ばっかりで、

しかも、それぞれに美しい。

その中でも、ぬきんでて主人公の目に付いたのがアルベルチーヌだったというわけ。

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出会いは、こんな風にリゾート地での気安さといいましょうか、

どうせ一過性のもの、と言う具合に、多少の危険はあるけれど、それが逆にスリルがある。

アルベルチーヌは主人公に思わせぶりに

「明日はわたし、パリに帰るの。

よかったら、夜、わたしの部屋でふたりですごしてもいいのよ」とさそう。

主人公はたとえ喘息もちでも、据え膳食わぬは男の恥、とでもいわんばかりに

少女の部屋に勇んでゆくのですが、

なぜかコトに及ぼうとすると

アルベルチーヌに「何するの! 気安く触らないでよ、わたしに近寄らないで!」

と拒絶。

おとなしく、オハナシだけをするために読んだのかよ~。紛らわしいヤツ、

けったくそわり~、カマトトぶりやがってよ。

で主人公はげんなりして、それっきりアルベルチーヌのことは忘れてしまうのです

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時は過ぎ、主人公も悪所通いも板についてきた頃、

ある日突然、アルベルチーヌは何の前触れもなく、主人公の家にやって来る。

そして、以前はあんなに抵抗したのに、

今度はやすやすと、主人公に抱かれてしまうのでした。

主人公は、そのときはアルベルチーヌの女性としての肉体にだけ

興味があったので、モノにしてしまって飽きてしまったら、いずれは捨てようと思っていたのでした。

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20世紀初頭のフランスのブルジョアの階級の女の子ってみんなこんな風に発展家さんばっかりなの?

とちょっと読んでいてびっくりしませんか?

わたくしはびっくりしました。

貴族階級なら、わりと退廃的な風はあるから、

表面はしとやかで貞淑な風を装っていれば、

つまり、世間に知れることがなければ、かなり大胆なことはやってしまうかもしれませんが、

ブルジョア階級というのは、主人公の母親や祖母をみている限りでは

そうとうモラルが厳しい感じがします。

主人公の母親なんかは自分の姪がふだん、ナチュラルメークでいかにも

化粧をしてないように巧妙にお化粧してたのに、

ある日、どういうわけか化粧しているのがばれてしまったんですよ。

「まあ、化粧なんかしている人なんかとおつきあいできませんわ!」で

絶交しちゃうんですよ。

だから、アルベルチーヌのやっていることは、ブルジョアの世界では絶対に

大目に見られるようなことではなかったはず。

しかし、それなのにアルベルチーヌは、主人公と同棲生活をしちゃうんですよね。

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これ、どういうことかとわたくしなりに考えてみたんですが、

アルベルチーヌはブルジョア階級に属しているとはいえ、

実の両親は死んでしまって、しかも両親は財産を残してくれなかった娘なんです。

それで、高級官僚のおばさんのところへ引き取られて育てられていた、というわけです。

おばさんは、一応アルベルチーヌは姪ですので、女学校ぐらいは行かせて教育は

つけてやってはいますが、基本的に彼女は、お情けでおばさんの家においてもらっている身、

肩身がせまいのです。

しかも、当時は結婚に際しては、持参金というものがなければ成立しませんでした。

アルベルチーヌは自身の財産がないわけですから、

仲良くしている友人の母親から

「かわいそうに、アルベルチーヌはいくらきれいでも、これでは絶対にお嫁にいけないわね」

と陰口をたたかれる存在だったんです。

ある意味、美しくて教養があるアルベルチーヌみたいな、こんな子は

高級娼婦予備軍なのかもしれないです。

というか、主人公はすでにアルベルチーヌをそういった高級娼婦と同じ類の女と

すでにジャンル分けしているような気がしますね。

だから、美しい彼女をまるで着せ替え人形のように、次々とフォルトニーみたいな

高級ブランドのお店から特注させた衣装や靴をいくつもいくつも与えるんです。

アルベルチーヌは、自分には絶対に与えられることはなかっただろうと

渇望していたこれらの高級品には、非常に目利きなんです。

これはプルーストの解説本を書いている海野弘さんがおっしゃっていたことだけれど、

「アルベルチーヌはある意味、同時代に生きたシャネルを彷彿とさせるところがある。

貴婦人は潤沢にお金があるので、ほしいものはすぐに手が入るため、それほど

モノに対して執着がないが、彼女らはそれらを望んでも与えられないため、

却ってそれらのことを貴婦人以上に知悉しており、見る目がある」と。

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ですから、主人公も気安くアルベルチーヌを妾のように囲ってしまうんです。

決して、将来結婚しよう、とかそんなことを考えていない。

主人公は、アルベルチーヌの美しさ、聡明さ、物事に対するセンスのよさ、などを

気に入っていたのですね。

だけど、それも一過性のもの。

いつかは、飽きれば彼女を捨てよう。そればかり、考えていたのでした。

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主人公は複雑な性格の人でして、

この人は作家を目指しているんですね。

そして、すごく多情なんです。自分が誠実な夫になれないのを自覚していおり、

かつまた、誠実な夫という枠に縛られるのがイヤなんです。

わたくしが思うに、彼は心の奥深くでは彼女に「愛」を感じているのだけれど、

それを自分では「執着」だと理解するのです。

そして、毎日二人でいることに耐えられなくなる。

彼女には飽きた。非日常性をなくした関係など倦怠以外の何ものでもない、

早く彼女を捨ててしまおう。

毎日そればかりを考えるようになる。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

しかし、主人公にはアルベルチーヌをどうしても手放せない理由があったのです。

それは、彼女はどうも主人公には隠している「秘密」があると。

それは、たぶん、彼女が同性愛者なのではないか、という疑問です。

主人公にとっては、解き明かされない謎ほどひきつけられるものはないのです。

彼女がどんな所業をしているのか、暴いてみせるまでは絶対に離さない、と思うのですね。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

そこから、ふたりの心理戦が始まる。

普段、主人公は日中、執筆の仕事をしているので、

アルベルチーヌにふらふらしていてもらっても困るので

彼女の友人のアンドレ(女の子にもつける名前のようです)にきてもらって、

日中は彼女とどこか、公園にいったり、ドライブしたりして過ごさせている。

帰ってくると、一日どうやって過ごしたのかイチイチ報告させるのですね。 

そして、ちょっとした話の食い違いがあるとそれを執拗に尋ねて、

本当にあったことを白状させようとする。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ある日、ルバッタというお店のアイスクリームが食べたい、とアルベルチーヌがいうと、

主人公は「ルバッタ」とわざわざ店を指名するのは、そこはかつて彼女とその同性愛者の

恋人と一緒に食べた店に違いない、と腹の中で考えていたりするのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

もう、一時が万事、そんなふうで、

ある日、執拗に尋問していた主人公に耐えかねて

アルベルチーヌは激怒します。

そうすると、主人公はネチネチと「じゃあ、分かれよう。ボクたちはその日が来たんだ。

分かれたら、絶対にお互いに顔を二度と見ることがないように、ああして、こうして」

みたいに、心にもないことを言ってアルベルチーヌを苛め抜きます。

とうとう、アルベルチーヌは自分が悪かったと誤り、その晩は和解したように見えたのですが…

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

しかし、その事件があってしばらくした朝、

主人公は決して、アルベルチーヌは自分から別れるとはいわないだろう、

そうすれば今こそ、自分から別れを告げよう、と思うのです。

そして、おきぬけのお茶を部屋まで運んできた女中のフランソワーズに

アルベルチーヌを自分の部屋にくるように呼んできてもらおうと思ったそのとき

ふしだら女とアルベルチーヌを嫌いぬいていたフランスワーズにこう言い渡されるのです。

「アルベルチーヌさんは、これを坊ちゃんに、と私に手紙を預けて、

ここをお立ちになりました」

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あまりに長いですね。つづきます。


プルースト『失われた時を求めて』を全巻踏破! ①概論 [シリーズで考える深い考察]

とうとう全巻読了しました!

20世紀フランス文学の金字塔とも称される

マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』

はぁ~、一言でいいますと、「長かった!」です。

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思えば、プルーストのぷの字も知らない20歳もそこそこの頃、

映画館で『スワンの恋』って言うのを見たんです。

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この映画が実に良かった。

小さい頃から、着せ替え人形で遊ぶのがすき、

お姫様が好き、ドレスが好き、で育った人間ですので、

本場の絹の緞子かなんかで細かな仕立てがしてある、

クリノリンドレスやバッスルスタイルのディドレスやソワレ(夜会服)など

豪華絢爛の世界を目の当たりにすると、くらくらと目がくらんでしまったんです。

そして…主人公シャルル・スワンを演じた若いジェレミー・アイアンズ。

今は渋いオジサンになっていますが、本当にかっこよかった。

この映画が引き金になって、

非常に難解といわれるプルーストをいつか読もう、と若い私は心に決めたのでした。

それから、いったい何十年かかったのでしょう?

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しかし、この小説はいわゆるフランス文学、ひいては美術、音楽の集大成でもあるので、

な~んにも知識がないと本当に面白くないだろうことは予感していました。

まぁ、音楽や絵画はわたくしの得意な領域なので、そこはよいとしても、

フランス文学はまったくといっていいほど、手をつけていませんでした。

でも、いきなりフランス文学はないだろう、と思い直し、

まずはやはりちょっとスノッブな三島由紀夫から。

スノブといっても三島の文学は本物ですので、かなり彼の美意識というものを

理解した上で、バルザック、フローベール、モーパッサン、ゾラ、メリメ、コレット、ジイド、などなど

読めるだけ、読みました。予備知識として。

さすがに、あんまり古いものはお手上げなので読みはしませんでしたけど。

(本当は読めるのだったら、読んだほうが良かった)

プルーストを読んでいて失敗したな、と思ったのがわたくし、まったくユゴーは読んでませんで

劇中の登場人物にユゴーの批判をながながとさせている箇所があって、

そこはまったく理解できませんでしたので、ちょっと残念です。

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とまれ、本題。

あらすじをいいますと、

っていうか、これってあらすじがあるようでないような感じなんですけどね、

19世紀も終わりごろ、作者の分身のような主人公の幼年時代から物語が始まるのです。

主人公の本宅はパリにあるらしいのですが、父親の休暇となるとその実家となる

コンブレーですごすことになるのです。

コンブレーはなんってことのない田舎なのですが、

主人公の家を起点として二つの散歩道がありました。

ひとつは「スワン家のほう」、メゼグリーズを通って、スワンの家のあるタンソンヴィルへの道。

もう一方は、「ゲルマントのほう」

こちらは、パリの中でも大貴族の中の大貴族であるゲルマント家の本拠地というか、領地があるところでしてた。

ゲルマントのほうは、スワンの家のほうへいくよりちょっと道のりが遠く、

スワンの家に行くようにちょいちょい行けないのが難点です。

ですが、川伝いにいく散歩道はサンザシの花が咲き誇るスワンの家とはまた違った趣がありました。

そして、町の中心にあるちっぽけな教会にはゲルマント家の先祖である、ジュヌビエーヴ・ド・ブラバンが

ステンドガラスにはめ込まれていました。

感受性が強く、想像癖の強い少年の主人公は、このステンドグラスを見て、

ゲルマント家、そして、現存する当代のゲルマント公爵夫人にあこがれるのです。

この箇所はちょっと日本人には難しいところなんですが、

たとえば日本でいえば、平安の絶世の美人といえば「かぐや姫」などを思い出すでしょう?

かぐや姫は、結局帝の求愛を退けて月に戻ってしまったけど、

実は別の異聞というのがあって、それは表向きの話であって、がぐや姫はこっそりと帝と結ばれて

その子孫である貴族の末裔が現存する「○○家」である、っていわれるのを聞くのと同じ感覚かな、と思います。

そのとき、日本でいえば、江戸から明治に入る頃ですが、

そういわれたとしたら、なんか「あこがれ」みたないなものが胸に生じたりする気持ち、わかりますよね。

まあ、そういったことことが主人公に起こるのです。

とにかく、長いのではしょっていいますと、

主人公はこの「あこがれ」という一種の好奇心が芽生え、

その好奇心の命ずるままに、貴族のサロンに行きたい、と思えば、

なんとかして、そのコネを使って、とうとう当代一流のサロンへも出入りし、

当時の高級リゾートだったノルマンディの海岸へ行ったり、

なかなか華やかな青春時代をすごすのですが、

やがて、自身の宿阿ともいえる喘息が何度も発症し、

だいたい第一次世界大戦とともにサナトリウムで療養することを余技なくされるわけです。

若いときから、芸術にあこがれ、将来は作家になる、と決めていた主人公ですが、

年齢は重ねていたとはいえ、まともな作品はなにひとつ残せないでいました。

そうした、自分からは無為にすごしてしまった時代を取り返すべく、自分の物語を書こう、

と決心したところで話は終わるのです。

(この話は循環しているので、冒頭に戻るのですね)

簡単にいってしまえば、別にドラマティックな大恋愛とか大悲恋とか、

そういうものが起こるわけではありません。

しかし、どことなく『源氏物語』を想起させるところもある、そんな物語です。

この話はもともと当時バルザックやユゴーと匹敵するような作家「サント・ブーヴに対抗する」批判文を

書くはずだったのが、いつのまにか小説になってしまっていた、ということです。

今日でも、バルザックやユゴーなどは名も知られていて、小説も読まれていますし、

作品が映画になったり、ミュージカルになったりしてますが、サント・ブーヴなんて名前は、

この作品を読むまで知りませんでした。

そして、サント・ブーヴの主張のどこにプルーストは反感を覚えたのかまでは

今のわたくしには論じる資格はありません。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

そのほか、スノッブと貴族の問題、

貴族とブルジョアの問題、

ユダヤ人と貴族の問題、

同性愛の問題、

などなど、いろいろと問題提起がその物語の中にされているのですが、

なにせ集英社の文庫で13巻のなが~~~い小説なので、

一口にどうこう、といえる小説ではありません。

ので、せっかく読破したことでもあるし、

これから、何回かにわたって自分なりの思いをつづっていきたいと思います。

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プルーストはカトリックの医師である父親とユダヤ人の母親との間に生まれた、

ユダヤの血を引いた人間です。そして、彼は完全な同性愛者でした。

しかし、小説の主人公は、両親ともカトリックの家庭に育ったことになっていますし、

そうとう好色な人間ですが、同性愛者ではありません。

つまり、これはプルーストの自伝に見せかけた全くの創作です。

しかし、主人公の周りの人間がユダヤ人であったり、

同性愛者であったりする設定は、

主人公も自身の分身であるなら、

登場人物も自身の分身であるわけですね。

そうやって、単なる自伝ではなく、

本当の心の真実を、この小説を通して描いているのだ、と思います。


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